nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

「怪物」の在処と批評の在処

※追記1是枝監督について(2023.6.14)

※追記2朝日新聞鼎談について(2024.4.18)

 

●「あみ子」の記事を告知するためだけに連れ合いに作成してもらったTwitterアカウントは本来の役目を終えた後、全く機能していなかったのだけれど、映画『怪物』への批判的な言説がクィア当事者からは勿論、批評に携わる人たちからもあがってくるのを見ている中で、少し思うことがあったので投稿させてもらった、それを記録としてここに再掲しておく(アカウントは予定していた期日に消去済)。

 

●以下、連続10tweetを区切りなく再掲。本屋lighthouseのニュースレター「映画『怪物』を巡って」(坪井里緒)に対する意見として

 

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(ニュースレターで坪井さんの文章を読んで)

本当にその通りだと思います。ただ、執筆の方が映画雑誌(批評)に関わりがあるようなので、一点付け加えさせて下さい。

私はかつて、映画『こちらあみ子』に関する問題点をブログで指摘しましたが、「あみ子」も骨子(及びそこから派生する問題)は『怪物』(及びマイノリティを主題とした日本映画の多く)と同類のものと認識しております。しかし坪井さんの文中にも出てくる某批評家は、『怪物』には疑問を呈しながら「あみ子」のことは称揚しており、その「区別」含む各種批評家たちの『怪物』批判の文中に私は、批評の精度がレトリックで、映画の精度が美しさで誤魔化されてしまうことの相似を見ずにはいられません(……念の為そえておきますがその方のお仕事の全体については本当に尊敬しています、ああいう方が業界内にいてくれることに感謝しています)。


『怪物』含め、是枝監督がこれまでずっと描いてきた主題としての「子ども」とその描かれ方、物語の閉じられ方(開かれ方)に対して、批評家たちは『怪物』と「クィア」のようには真摯に向き合ってこなかった、それが連綿と続いた結果、このような映画が生まれたのでもあって、そこへの自省を欠いた批評群には、この監督の作品群にも通底する問題(端的にいえば「考えなければいけないというポーズをとり続ける大人」の視座から動けない膠着したロマンティシズム)が含まれているように思えます。件の某批評家のように、ジェンダー/セクシュアリティがモチーフになっている時は問題提起する(できる)けれど、それ以外のマイノリティがモチーフの時にはそこに含まれる差別や搾取が見えない(指摘しない)のだとすれば、その特質ゆえに当事者からの意見があがりにくい(あがり得ない)多種のマイノリティや子どもの問題は永遠に無視され、同じ骨子の映画は再生産され続けるでしょうし、
(当事者としての自分ではなく)「批評する者」としての「自分」含む(主題に対する)マジョリティが「自然に」感じるだろうこと=「美しさ」を(是非とわず)前提に(批評)文を進める鈍感さが、それこそ文体の表面的な正しさ(レトリック)で流されてしまう時、そこに読み取れるのはやはり、『怪物』がマイノリティ(クィア当事者……或いはあらゆる困難のなか生きている子どもたち)に向けている愚鈍で怠惰で傲慢な大人の視線、それと同質のものだと、私には思われます。

長くなりましたが、
同様の構造の映画を同じ批評家が肯定/否定することと、同じ監督の映画が作品ごとに肯定的/否定的にとらえられることとの狭間に見えてくる「区別」に、作品の言葉と批評の言葉との「相違」に、そして「子ども」にまつわる表象の全てについて、批評に関わる人たちはもう少し考えていただけたら……と(クィア批評家にも無視されがちなマイノリティの一員として)日々思っています。特定の監督や批評家を腐したいわけでもクィアの話に別問題を被せたいわけでもないです、内容には全面的に賛同していて本当に本当に大事な指摘だと思っています。偉そうなことを言ってすみません乱文失礼いたしました

 

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●今回は偶々これを読んだからここにtweetしただけで別にこの方の文章に否と言うつもりはなく映画業界で批評に携わっている人になら誰にでもこの話をしたい気持ち……

だったのだが、やはりこの文面の中にどうしても看過できない言い回しがあるので追記する、これもまた批評全体に関係する話だけれど、『警告''ごとき''でその作品の面白さが損なわれるのであれば、それはただ単に作品の力不足にすぎない』と坪井さんは書いていらっしゃるけれど、それは違う。力不足なのは作品や作者だけでなく、視聴者や読者の我々もまた同じなのだと思う(且つ言うまでもなく作者もまた視聴者であり読者である)。インターネットを通して、誰でも手軽に、無料に近い形で様々なコンテンツを大量に消費できるようになった現代、日々大量に寄せられる情報に対処するために、刺激の無さや理解のしにくさ、長さや複雑さ、辞書を引く必要や調べる手間を無意識にも回避したがっている「消費者」はとても多く、作者個人だけではない編集やプロモーター含む「制作側」は、常にその動向を読みながら、コンテンツの提供を続けている。だから仮に作品が本当に素晴らしいものだったとしても、時間に追われ刺激に慣れきり新しいものに次々飛びつく現代の受け手たちには"警告ごとき"で、その作品の良い所が全く見えなくなってしまうことは、当然あると思う。大切なのは、コンテンツを享受する我々もまたその映画を、漫画を、小説を、ゲームを、形作っている一員だとしっかり認識した上で、短絡的な刺激的なものを欲しているのは自分たち自身でもあると、相手は写し鏡でもあると、分かった上で、作品のあり方に言及すること。その過程を省いて制作側にだけ「指摘」を続けていても、同じような作品はきっとなくならないだろう。一消費者にその自覚を要求することが(現代の社会事情では)酷だったとしても、批評に携わる人ならばその辺り、もっとしっかり考えた方がいいのでは、と思ってしまう……

……まあそれだけでなく、近年の映画批評(家)は商業的に映画業界(のプロモーション)とズブズブで、そのことが作る人や視聴する人に与えているかもしれない影響(個人の実感を越えて生成されていく評価)自体は振り返らないのによくもまあ……と思うことが、まま、ある……

 

 

※追記1

「是枝監督は社会問題に真摯では?」という質問をいただいたので、私なりの答え。

この監督が「社会派」「反権力」「人格者」なのは分かるけれど、『怪物』がそうであったようにこれまでの作品でも、ドキュメンタリーではなくフィクションを選んでいるのに「問いかける」「マジョリティからマジョリティにつきつける」以上でも以下でもない表現に終始している点を、私は支持できずにいる……それぞれの当事者には今この瞬間の/これからの「生存」がかかっているというのにそれよりも優先されて見えるのが「当事者を見る人たち」「映画を観る人たち」への「問いかけ」であることに疑問を感じてしまうのだ。勿論、可視化や気付きは大切だけれど、フィクションに関しては本当の意味で当事者目線のものを作れれば結果的にそれが一番、「観る人」に対して「見えていない世界」と無自覚な特権性を突き付けることに繋がるのではないかと思うし、それが諸刃の剣であることに留意は必要ながらも、「考えさせる」だけでなく人々の「当たり前」を緩やかに/速やかに変えうる力をもつのが「フィクション」だと私は思っているので……

※追記2

2024年3月朝日新聞に『怪物』をめぐる坪井さん、児玉さん、是枝さんの鼎談が掲載された件。反差別界隈(?)の皆さんは称賛しているようだけれど、坪井さんも児玉さんも他者のことは糾弾するのに自分が差別性を指摘された時は誠実に向き合おうとしない人たちに思えるから私は冷めた目で見ている(ハッシュタグの使い方も安易に過ぎて賛同しかねる)し、是枝さんに至ってはあまりにも……あまりにも素朴で、呆れるほかない