nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

「後悔」と「雑感」

※一部修正(最終2024.2.16) 

※ひどく幼い

 

「後悔」と「雑感」、

どちらも大好きな歌で柴田聡子は人に伝わりにくく自覚すらしにくい感覚をそうまさにそれ!としか言いようのない表現で打ち出してくるのがいつもすごい、一聴コミックソングっぽいしポップだから細部を聞き逃してしまいそうになるけれど文脈ではなく意識に沿って言葉が連れてくる次の言葉はいつ崩壊ししてもおかしくない不安定さに満ちているのに毎度毎度、微細に変化する音型とリズムがさり気なくしかし余さずそれを拾う、というか歌詞の余剰とメロディーのずれとリズムの転びが都度気持ちいいほどぴったり当てはまって何度も何度も「今この瞬間」を立ち上げる、脱力さ真面目さが同居した歌声と高い演奏技術がそれを後押しして言葉も音も、まるで今そこで生まれたかのような説得力をもつけれどその説得力とは他者に伝える言葉に付随するそれではなく、現在を現在にとどめておく自分を自分として立ち上がらせる力のようなもので圧倒的に浮遊感に近い……そうまさにそれ!……のあとに続く言葉は泡のように浮かんでは消え浮かんでは消え、繰り返す生成と消滅によって今ここを生きる意識は限りなく現前化していく一方で、私という輪郭は、いつのまにか、消えていく。

 

 

どこにだってあるものでもこことそこじゃちがうので
ここにないからどこかにあると思って来ただけです
柴田聡子/雑感

 

 

とはいえオーソドックスでシンプルで爽やかな(歌詞は割とどうでもいい)J-POPも私は大好きで幼少期の覚えの中から愛らしい小品を掘り起こして鍵盤で再演するのが楽しい、脳の病気で寝たきりとは言い条、こうやって記憶で遊べる自分は病者の中ではまだ恵まれているよな、と思ったり(谷崎のエロティシズム?)。

 

ああ、きた、あの曲がきた
ねえ、いま、きみも気づいた?
柴田聡子/後悔

 

どんな病気でも障害でも各種マイノリティでも内部での比較や優劣から自由になることは難しく個人単位での「恵まれている部分」を巡る妬み僻みの応酬は、そこかしこで行われている。親、配偶者、子供、手術、手当、肩書き……有無による対立に遭遇するのはやるせないがかといって、もっと〇〇な人はいるのだからという言説をもって他人/自分の気持ちを封じ込めてもいけない、けれど私自身は、自分の心の平安のためにも持っているものや失っていないものに意識的に感謝はしていたいし感謝をすることでそれを持ちたくても持てない人がいるのかもしれないという観点を忘れずにいられるし「困ってるひと」に気付くきっかけをもてるように思っている(自分の見方が変われば世界が変わるという意味ではない)。
ある種のマイノリティである私だって或る面ではマジョリティであり或る面では大変に恵まれていて(マイノリティ間の格差という問題は当事者にとって意外に大きいものだ)、またまた別の面では偏見塗れと言えるかもしれず(しかもそれが経験則によるトラウマ化したものだからタチが悪い)人様に何かを指摘できる立場では全然ないということは、いつも肝に銘じている。反差別について発信しながら読み上げサービス(視覚障害)を全く念頭に置かない文章の書き方をしてしまったこと(私自身しゅう明であるのに……)、誰かが一生懸命つくったもの/誰かが深い感動を得たものを無根拠に否定したいわけでは決してないのに時間をかけない雑な書き方をしてしまったこと、要するにこのブログにまつわる全てについて、今では激しく「後悔」しているほどだ。

 

染みついたものばかり抱き寄せて眠らせている
ずっと勇気になって私のとこに住んでるだけです
柴田聡子/雑感

 

誰も取りこぼさないなんて不可能だからこそ誰も取りこぼさないことを目指し続けて丁度いい、どれだけ言葉にしたって言葉にできないものが絶対あるから限界まで言葉にする努力をした方がいい、「難しいことを簡単に説明できる人が本当に優れた人」だなんて露程も思わない、私のこういうクソ真面目さは時に指導教官からも嘲笑われてきたが少なくともマイノリティについて言及する書き手の姿勢としては、問題の御し難さ物事の複雑さに耐え続ける覚悟と責任は絶対に必要ではないのかといつも考えている、そして一連のブログにおける私の態度は、その、自分がずっと考えてきたはずのことに見合うものでは到底、なかった。

そのことを、ここ数ヶ月のあいだ、毎日毎日心苦しく思っていた。

……己の中に巣食うマイノリティとしての劣等感、そして勿論マジョリティとしての優越感に、どうしたらこの先もっと向き合っていけるだろうか。「後悔」まみれの私がこのブログを更新することはもう無いだろうけれど、自分や誰かの「答え」になりかねない言葉を二度と書かないためにも、この世界/社会の複雑さを意味づけに頼ることなく丸ごと見つめるためにも、「後悔」も含めた「雑感」(……まさにここまで書いてきたような取り留めのないもの)に漂い続ける自分をもっと大切に(慎重に)扱っていきたいと、今は考えている、穏便にやりたいとか差別に対して何も言わないという意味では全くなくて、寧ろこれまで以上に、責任と覚悟と見識(を養うための努力)を身につけて多数派の決めたルールに抗って生きたい。もう誰も居なくなってしまわないように。マジョリティの勢いに黙らされて消えていく(明日の私かもしれない)マイノリティが、これ以上増えてしまわないように。創作の力を信じているからこそ、私はそれについてまだまだ沢山考えていきたい、読むことも見ることも考えることもままならない病身だけれど私は私にできることをただ淡々と、やっていきたい……これからも、ここではない場所で、また。

 

 

 

ここからしあわせ祈ってる
遠くのあの子に祈ってる
みんなもみんなで祈ってる
ありがとう、おめでとう、また会おう!
柴田聡子/後悔