nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

泥ノ田犬彦さんへ(君と宇宙を歩くために、再び)

※一部修正(最終2024.4.12)

 

私はASDなのですが(……そしてそれとは別にすごく厳密な性質なのでここでの話は大袈裟に聞こえるかもしれませんが神経系難病もちでネット使用厳禁を言い渡されているのに病状を悪化させてまで書かざるを得なかった切実さは腐したいという軽い気持ちとは真逆のものです)、「君と宇宙を歩くために」のような作品が世の中で称賛される様子を冷ややかな目で見ています。

 

作者さんは「宇野くんには明確なモデルがいて自分はその子が大好き」と仰っていますが、発達障害〜グレーゾーンを彷彿とさせる(多くの人が感想にその言葉を入れています、作中にそう明記している/いないは関係なく、そう連想させる作品をあなたが描いたということです)キャラクターを描く上で(つまり「友達」とか「大好き」とかいう言葉以前にマイノリティ属性と分かち難い人物を描く上で)、その「特定の個人」以外の情報は参照しなかったのでしょうか? ASDと苛め/トラウマの関係やそれにも起因する精神疾患発症率の高さ自死率の高さについて、障害者運動の歴史とそれが問うてきたもの、医療者や支援者への当事者自身からの反発について、そして何より、(漫画に限らない)フィクションにおいて、発達障害者がどのように描かれ、どのように受け止められ、その結果どんな形の差別が(……侮蔑だけでなく妬みもまざった差別が)形成されて2024年に至っているのか、少しでも調べてみたのでしょうか。

 

障害の有無に関わらず誰にとっても「普通」のハードルが高い困難な社会だと私も感じていますから(一人ひとりの苦しみは比較できない固有のものでマイノリティだけが苦しいと言いたいわけでは決してありません)作者さんがご自身を「生きづらさを抱えた繊細で感受性豊かな自分」と認識することも当然(自由)だとは思うのですが、同時に、あのようなキャラクターを描きながら現実を生きる複数の当事者(無論あなたのお友達だけではない)への配慮(トリガーアラート)を必要なしと判断してしまえる特権性(マジョリティ性)と鈍感さが自分の中にあることについて、もう少し、向き合ってみてほしいです*1

作者の意識と表現の内容、そして受け手の態度の全ては相関関係にあります。私が冷然と見ているのは、この漫画単体に留まれない、作品と作者であるあなたがその外に生成した連帯と排除の構造で、それは作品内で目指されていた共生の世界とはかけ離れたものだと認識しています。瑕疵を指摘したASD当事者の方(私ではない)に対してあなたやそのファンたちが示した「反応」(現実)は、あなたが描きたかった作品世界とどんな関係性にあるのか、一度しっかり考えてみてほしいのです。

 

「60万人が共感し、涙した」という度し難い惹句がつくほど(勿論ついたからこそ、とも言える)沢山の人に評価された、大きな賞も受けた、それらの事実が証明するのはこの漫画の素晴らしさというよりも、この漫画がそれだけ「多くの人にとって分かりやすい」ものだったということではないでしょうか*2。そして多数派にとっての「分かりやすさ」は往々にして、周縁化された存在を置き去りにしていく。そのことを、創作に携わる者なら、

(……少なくとも弱者や社会の片隅でその繊細さに苦しむ人を意識的に描こうとする作者なら)

忘れてはいけないはずだと、私は思っています*3

 

*1:経緯を説明すると……作品内におけるマイノリティをめぐる描写に注意喚起がほしいという某ASD当事者の意見に対して作者は、これは「ヒューマンドラマ」だから「人間関係の衝突」は今後も発生するもしそれが「刺激になる」なら注意してと「反応」したが、問題とされているのはマイノリティ属性に基づき発生しやすい「トラウマ症状」であって、「刺激になる」と矮小化したり「ヒューマンドラマ」と敷衍化してしまえるのは作者が当事者性に無頓着である証左でそういった意識は作品内容にも反映されていると思う。支援者たちがこぞって称揚する作品なんてそれだけでも相当にグロテスクではないか。またファンからも例によって「嫌なら見るな」「傷つく権利は誰にでもある」等、作者擁護意見者非難の声が多く上がっていたが、「弱いもの苛め」という言葉が示すように攻撃とは社会的に弱い立場の少数者に向かいがちなものであり「傷つく権利」という発言はその不平等性に気付かずにいられる自分が実は「傷つける側」にいると分かっていない典型的な例だろう

*2:蛇足ではあるが賞をとる/売れるのが悪いという意味ではなく、作者の意識、表現の内容、受け手の態度の間に生じる相関関係を批評的に見ることも作品制作の重要な一翼であるということ

*3:上記に同じく、分かりやすさそれ自体が害悪という意味ではなく、とりこぼさざるを得ないものに対する創作者の認識不足を問題としている

「後悔」と「雑感」

※一部修正(最終2024.2.16) 

 

「後悔」と「雑感」、

どちらも大好きな歌で柴田聡子は人に伝わりにくく自覚すらしにくい感覚をそうまさにそれ!としか言いようのない表現で打ち出してくるのがいつもすごい、一聴コミックソングっぽいしポップだから細部を聞き逃してしまいそうになるけれど文脈ではなく意識に沿って言葉が連れてくる次の言葉はいつ崩壊ししてもおかしくない不安定さに満ちているのに毎度毎度、微細に変化する音型とリズムがさり気なくしかし余さずそれを拾う、というか歌詞の余剰とメロディーのずれとリズムの転びが都度気持ちいいほどぴったり当てはまって何度も何度も「今この瞬間」を立ち上げる、脱力さ真面目さが同居した歌声と高い演奏技術がそれを後押しして言葉も音も、まるで今そこで生まれたかのような説得力をもつけれどその説得力とは他者に伝える言葉に付随するそれではなく、現在を現在にとどめておく自分を自分として立ち上がらせる力のようなもので圧倒的に浮遊感に近い……そうまさにそれ!……のあとに続く言葉は泡のように浮かんでは消え浮かんでは消え、繰り返す生成と消滅によって今ここを生きる意識は限りなく現前化していく一方で、私という輪郭は、いつのまにか、消えていく。

 

 

どこにだってあるものでもこことそこじゃちがうので
ここにないからどこかにあると思って来ただけです
柴田聡子/雑感

 

 

とはいえオーソドックスでシンプルで爽やかな(歌詞は割とどうでもいい)J-POPも私は大好きで幼少期の覚えの中から愛らしい小品を掘り起こして鍵盤で再演するのが楽しい、脳の病気で寝たきりとは言い条、こうやって記憶で遊べる自分は病者の中ではまだ恵まれているよな、と思ったり(谷崎のエロティシズム?)。

 

ああ、きた、あの曲がきた
ねえ、いま、きみも気づいた?
柴田聡子/後悔

 

どんな病気でも障害でも各種マイノリティでも内部での比較や優劣から自由になることは難しく個人単位での「恵まれている部分」を巡る妬み僻みの応酬は、そこかしこで行われている。親、配偶者、子供、手術、手当、肩書き……有無による対立に遭遇するのはやるせないがかといって、もっと〇〇な人はいるのだからという言説をもって他人/自分の気持ちを封じ込めてもいけない、けれど私自身は、自分の心の平安のためにも持っているものや失っていないものに意識的に感謝はしていたいし感謝をすることでそれを持ちたくても持てない人がいるのかもしれないという観点を忘れずにいられるし「困ってるひと」に気付くきっかけをもてるように思っている(自分の見方が変われば世界が変わるという意味ではない)。
ある種のマイノリティである私だって或る面ではマジョリティであり或る面では大変に恵まれていて(マイノリティ間の格差という問題は当事者にとって意外に大きいものだ)、またまた別の面では偏見塗れと言えるかもしれず(しかもそれが経験則によるトラウマ化したものだからタチが悪い)人様に何かを指摘できる立場では全然ないということは、いつも肝に銘じている。反差別について発信しながら読み上げサービス(視覚障害)を全く念頭に置かない文章の書き方をしてしまったこと(私自身しゅう明であるのに……)、誰かが一生懸命つくったもの/誰かが深い感動を得たものを無根拠に否定したいわけでは決してないのに時間をかけない雑な書き方をしてしまったこと、要するにこのブログにまつわる全てについて、今では激しく「後悔」しているほどだ。

 

染みついたものばかり抱き寄せて眠らせている
ずっと勇気になって私のとこに住んでるだけです
柴田聡子/雑感

 

誰も取りこぼさないなんて不可能だからこそ誰も取りこぼさないことを目指し続けて丁度いい、どれだけ言葉にしたって言葉にできないものが絶対あるから限界まで言葉にする努力をした方がいい、「難しいことを簡単に説明できる人が本当に優れた人」だなんて露程も思わない、私のこういうクソ真面目さは時に指導教員からも嘲笑われてきたが少なくともマイノリティについて言及する書き手の姿勢としては、問題の御し難さ物事の複雑さに耐え続ける覚悟と責任は絶対に必要ではないのかといつも考えている、そして一連のブログにおける私の態度は、その、自分がずっと考えてきたはずのことに見合うものでは到底、なかった。

そのことを、ここ数ヶ月のあいだ、毎日毎日心苦しく思っていた。

……己の中に巣食うマイノリティとしての劣等感、そして勿論マジョリティとしての優越感に、どうしたらこの先もっと向き合っていけるだろうか。「後悔」まみれの私がこのブログを更新することはもう無いだろうけれど、自分や誰かの「答え」になりかねない言葉を二度と書かないためにも、この世界/社会の複雑さを意味づけに頼ることなく丸ごと見つめるためにも、「後悔」も含めた「雑感」(……まさにここまで書いてきたような取り留めのないもの)に漂い続ける自分をもっと大切に(慎重に)扱っていきたいと、今は考えている、穏便にやりたいとか差別に対して何も言わないという意味では全くなくて、寧ろこれまで以上に、責任と覚悟と見識(を養うための努力)を身につけて多数派の決めたルールに抗って生きたい。もう誰も居なくなってしまわないように。マジョリティの勢いに黙らされて消えていく(明日の私かもしれない)マイノリティが、これ以上増えてしまわないように。創作の力を信じているからこそ、私はそれについてまだまだ沢山考えていきたい、読むことも見ることも考えることもままならない病身だけれど私は私にできることをただ淡々と、やっていきたい……これからも、ここではない場所で、また。

必ず(自分へ!)。

 

 

ここからしあわせ祈ってる
遠くのあの子に祈ってる
みんなもみんなで祈ってる
ありがとう、おめでとう、また会おう!
柴田聡子/後悔

「違国日記」作者発言と自称(発達)障害

※一部修正(最終2024.4.18)

※誤解を招きそうなので最初に申し添えておきますが、私は「確定診断」に価値をおいているわけではなく(診断は医師によってばらつきがあるし診断が出たから解決する問題なんて無い)、セルフ診断だけで他言しないで診察に向かうことの大切さと、「検査なんてしなくていい」と「自己判断できる理由」が実は発達障害を巡る諸問題と密接な関わりを持っていること、診断を受けていない者が安易に公の場で「障害」と口にすることの問題性について、丁寧に考えていかなければいけないと思っています

 

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「違国日記」という漫画が完結して話題になっているけれど、私はこの漫画、(今のところ)たった4巻で挫折してしまった。その理由は「漫画の内容」より「著者の態度」にあるという話を、簡単に記録しておきたい。これまでのブログにも関連する話題として。

 

4巻までしか開いていないとはいえ、ページをめくるたびに光の粒や風の流れが溢れ出てくるような繊細な線とモノローグで、十代の心の揺れや人と人とのわかりあえなさ、苦しみや安らぎが丁寧に描かれていくこの漫画を、私はとても好ましく思っているのだけれど、

 

現実でも複数人でのやり取りに頭が混乱する私は、餃子を包んだりお酒を呑んだり主人公が仲間と戯れているシーンにおける、漫画のコード(吹き出しと人物が離れたり、ニ等身になったり)と現実社会の会話のコード(今時の言葉遣いや、意味をなさないやりとり)の掛け合わせによって作られる「リアルっぽい(つまり定型発達的コミュニケーションが不得手な私にとっては限りなく嘘くさい)表現」というものがとても苦手で、こういうシーンが多い漫画を読んでいると、無駄に疲れたり落ち込んだりしてしまう。

 

だから、曇りなく、心から、本当に素敵な作品だとは思うけれど、
とてもとてもいい作品だとは感じたのだけれど、

 

4巻ラストの唐突な恋愛的展開も含めて、これは私が読み進めるような漫画ではないのかも……と、元々少し迷っていた節はあった、そんな時に、不運にも見つけてしまったのが、以下の著者コメントだった。

 

ヤマシタ メインのテーマのひとつが発達障害で、それを多様性と言ってしまうとあまりにもざっくりとしすぎてしまうんですが、メインの登場人物を発達障害の人にしようとは決めていました。以前にTVで発達障害のことをやっていたときに、あまりに自分が当てはまったのですごくびっくりしたんです。今更びっくりしているということは、これからびっくりすることになる人たちも世の中に結構いるのでは!?と思ったので、描こうと。
https://note.com/feelyoung_ed/n/n9001d551be82

 

……確かに、発達障害の傾向にありながらも、未診断で問題なく生活できている人はいる。しかし病院に行くほどの不調はない、検査の必要性も感じられない、失職や離縁を繰り返す等の困難がない人は、正確には発達「障害」とは言えない。大人気漫画家であるこの著者のように「未診断&社会生活に問題がなく気が付かなかった」のなら、仮に診断基準を満たしていたとしても「発達障害」ではなく「非定型発達」というのが妥当で、まずその辺りの、「障害」という言葉に対する認識の粗さが、とても気になってしまった(曲がりなりにもテーマのひとつと言っているのだから、色々調べてはいるはずなのに)。

 

更に言うまでもないことだけれど、テレビやネットの「セルフ診断に当てはまる」からといって、その人が発達障害(の傾向にある、グレーゾーン)というわけではない。「片付けられない」「仕事でミスが多い」「人間関係がうまくいかない」「社会性がない」「炎上発言を繰り返す」「こだわりが強い」等、発達特性の指標として提示されがちな特徴のいずれも、そしてもちろん生きづらさや苦しみも、程度の差こそあれ誰でも持ち得るものであって(そもそも発達障害自体グラデーションである)、医師はそこだけをみてその人を発達障害と診断しているわけではない、フィクションで描かれる発達障害者のイメージとかけ離れた当事者だって多くいる(片付けられない発達障害という偏見は根強いけれど、非定型発達ならではの脳内の混乱をコントロールするために、何も持たない片付ける必要のない生活を徹底して維持している当事者は私だけではない)。セルフチェックやフィクションによってもたらされたイメージ、ステレオタイプに沿って自身を「診断」し口外してしまうことの危険性は、命に関わったり目に見える他の病気や障害で考えてみればすぐに分かることなのに何故か発達障害の場合はそう認識されないことが多く、この著者のように茫漠とした発言をする「自称発達障害」は後を立たない、その(検査や診断を仰がず自分で決めつけ公言してしまう)態度は、他でもない自分がもっている発達障害への根深い偏見、思い込みから生まれてきているということにも、気づいていないらしい。

 

……とはいえ、私は、この著者が未診断のまま適当なことを言っている様子を責めたいわけではない。冒頭にも書いたが、診断か未診断か、発達障害かグレーゾーンか、そういった線引きをしてどちらかを優遇したいわけでもない。寧ろそういった「線引きの問題」も含めて、発達障害をめぐる現状、この社会を当事者として生きることの意味(個性と言いくるめるにはあまりにもデメリットが多い)を侮っているからこそ公の場で軽々しく「多様性が〜」「テレビを見て〜」と言えてしまえるのだろうその言葉の扱いの雑さ、マイノリティに対する理解のなさと自身の発信力への無自覚さ、を前にして、途方に暮れている……というところだろうか。

 

失職や二次障害など金銭的にも追い込まれた状況で(継続的な就労が難しかったり精神疾患を併発している発達障害者は少なくない)救いを求めて(人によっては)高額な検査を受けざるを得ない或いは受けられない人たちの困難を、
検査を受けたけれどグレーゾーンゆえ福祉に繋がれなかったり公言をためらわざるを得ない人たちの逡巡を、
具体的な社会的差別の存在を前にクローズ就労や(多大な労力を伴う)擬態を続ける人たちの存在を、
個人の内面の問題にとどまらない、常に社会と往来する形で存在する発達障害者の苦難を、

 

この方は、どのように考えているのだろう、どのような理解のもとに、ああいったコメントをしたのだろう?

 

……漫画の続きを読めばもっと深い理解が描かれているのかもしれないけれど(嫌味ではなく本当に丁寧で素晴らしい作品と感じたので……)、日常的に自分の属性に対する差別で苦しみ、頻繁にフラッシュバックを起こす私や私のような人たちが、この著者コメントに先に触れ、呆れたり、自分にしか/自分にもわからないトリガーを危惧して作品を読むのを中断してしまったら、その後この漫画がフィクションとしてどれだけ素晴らしく展開していったとしても、著者自ら『メインテーマのひとつ』であると語る「発達障害」の扱いについては成功していると言ってはいけないのではないか……コメントする著者と同じ『フィクションの外』を生きている「発達障害」の私は、そんな風に思ってしまうのだ。

 

「自称発達障害」の増加だけでなく東京ブレインクリニックの問題、「HSP」という概念の流行に対して、診断済み当事者が何かを言うこと自体が「当事者(弱者)特権」の行使でありグレーの排除であると「認識」されかねない状況であること(そしてそれ故、何かを思いつつ黙している当事者が沢山いること)は十分承知しているし、しつこいようだが「真の当事者」を規定したい訳では決してない、けれども、特質(属性)によって生活がたちいかなくなるほど苦しんでいる人を無駄に傷つけることなくグラデーションに位置する人たちにも寄り添うためには、細かな現象/言動を慎重に見直していく必要があるはずだし、立場の違う各々が違和感を表明しあって様々な見解が積み重なることによってしか、事態が膠着状態(0か100か、善か悪か、正か誤か、診断か未診断か)に陥るのを防ぐことはできないだろうと思う、それに、

 

ここまで書いてきたようなことは私が他に経験してきたいくつかの病気に対しても当てはまることで(鬱病複雑性PTSD化学物質過敏症線維筋痛症、ME/CFSほか)、見た目にわからない病気や障害が無知や無理解を前提として(繰り返すが無知や無理解を前提として)「私もそれかも!」「みんなそうだよね〜」と簡単に言われてしまいがちなことに違和感を抱きながらも沈黙している当事者は、マジョリティが想像するよりずっとずっと、多いだろう、

セルフ診断の項目のようなものだけで、

フィクションのイメージだけで、

自身を当事者だと公言したり当事者を「そうは見えない」と勝手に規定したりする人が後を立たない病気や障害やある種のマイノリティの当事者たちが抱いてきた悔しさや悲しさやるせなさを(当事者同士の)共感の外に出して全体的な問題として考えていくためにはせめてまず、ヤマシタトモコさんのような発言力や拡散力のある人が公の場でするマイノリティへの言及の形を、もう少しだけでも丁寧なものに変えていってほしいと切に願うのだ、それは友人との会話とは違うのだから。

 

 

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※因みにあくまで私の周囲に限った話ですが、ASDの知人同士で話していると、HSPに対する(どちらかというとネガティブな)議論で盛り上がることが少なくないのですが、自身の「発達障害」と向き合いきれなかった私には、「天然ボケ」「不思議ちゃん」「B型」そして「HSP」という概念を利用して自分も周囲も欺いていた時代があり、その自分の態度に隠されていた(「障害」に対する)差別意識を思うと、HSPを公言したがる人たちについて、何かを言う気にはとてもなれません(もちろん心の中で軽く参考にする程度ならいいと思うし様々な事情で今現在、過去の私のように振る舞っている発達障害者を批判するつもりもないです)。けれどこのブームが、ある種の差別意識や排除の感覚、自己責任論の強化に繋がっている面は確かにあると感じており(……そもそも一次情報にあたって語源や背景を理解できていればHSPとかカサンドラ症候群という言葉は安易に使えないと思うのですが……)、発達障害と関連する問題として今後も考え続けていきたいな、とは思っています

 

 

 

 

 

 

謝辞(宇宙のブログに関して)

※突然よんでくださる方が増えて慌てて修正作業に走った前回のブログ、もう手遅れとは重々承知の上だけれど、どうしても一言だけ、謝罪と感謝を書いておきたい。

 

 

(……誰に指摘されたわけでもないのに勝手に謝るのもおかしいかもしれないけれど、自戒と決意表明として)

 

 

私は幼い頃から乱読家で(アスペルガーにはそういう人が多いらしい、が、私の場合は単に友達がいなかったためだろう……)、自分で何かを書くときも読書の中で見慣れた慣用句や熟語を深く考え直すこともなしに多用してしまう悪い(本当に改めたい)手癖があります。そのため私の文章は(以前のブログでも)どうしても視覚に頼った表現が多くなりがちで(日本語にそういうものが多い)、それはつまり発達障害について触れながら多分に健常主義的だということで、とても褒められたものではありません。そのことを自分でもずっと分かっていながら、うまい言い換えが見つからない部位については放置を続け、このように拡散させてしまったことを、今、心から申し訳なく思っています。

 

インターネット上には「無神経」「声を上げる」「無視」「疑問視」等を使わないよう注意していらっしゃる方も、恐らく読み上げを考慮して全文ひらがなでブログ作成・ツイートする方もいらっしゃって、反差別に関連する見解を発信するのであれば、そういった方々から学んだことを、私はもっときちんと活かすべきだったのに……心のどこかで、「この記事では発達障害の話が主題なのだから」と、物事に優先順位をつけていたのかもしれません。「無意識の排除」と自分で書きながら、全く愚かな話です(公開から数日たった今、可能な範囲で修正を施してあります。「無視」を「等閑」に変えるなど。ただし日常的に使われにくい言葉を使用することがもたらす問題もまた別にあり、ゆるやかに言語表現の幅を広げていく方法を、行きつ戻りつ、探っていく必要がありそうです)。

 

薬でもコントロール不可能なほど極めて強い衝動性と過集中に長年悩まされている私は、思いついた瞬間に速攻で書き上げ次の瞬間には投稿してしまうため、基本的に推敲というものを一切しません。課題でも資料でも手紙でも日記でもここまでのブログでも、今までの人生、愚かなことに全部そんな具合です(当然、後悔の量も半端ではないのに、分かってはいるのに、どうしても同じことを繰り返してしまいます……)。これも発達特性の一つと医師から指摘されてはいるものの、そういう自分の性急さによって(視覚障害などへの)差別や排除環境を強化する可能性があるのなら、校閲を頼むとか類語辞典を傍らに用意するとか、何らかの仕組みを、事前に真剣に用意しなければいけなかった。(必要なところではしなければいけない)自助努力を怠っていた。……今更ですが、今回の件を経てやっと、そこに思い至ることができました。

だからもしまた今後、何か書く機会があればその時は、そういった仕組みをうまく使い、既存の言葉に含まれる差別や排除を解体した表現を目指していけたら、と考えています。

……というよりは、それをもう、しなければ「ならない」時に私(たち)は来ているのかもしれず、きっとその先には、私(たち)がこれまで読んできた文章よりずっと自由で豊かな表現(と世界)の可能性(と関係性)が秘められているのだと、期待する気持ちもあるのです……

 

 

 

 

最後に、

件のブログ記事を紹介してくださった漫画家の山内尚さんに、その、作品から想像できる通り以上の誠実さに、心より感謝申し上げます。

ご自身の作品の話ではないにも関わらず、私の幼く拙く恥ずかしすぎる指摘に鷹揚と(それでいて素早く)対応して下さったこと。

通り一遍の謝罪ではなく*1ご自身の経験を踏まえながら具体的な応答をして下さったこと。

ブログの表面に現れている「差別への指摘」だけでなく書き上げるまでの時間や孤独まで深く読み取ってくださったこと。

……全てに感銘を受けました。果たして、私が同じ立場だったなら、このように振舞えただろうか? ……当然、答えは否ですが、この出会いをまた学びとして、自分も少しずつ変わっていきたいと思っています。

もちろん、山内さんの漫画をお守りにして。

 

山内尚さん、そしてブログを読んでくださった方々、この度は本当にありがとうございました。

 

*1:私が表象の問題を指摘した件の漫画は、山内尚さんの作品ではありません。山内さんに対しては、差別に対する問題意識があり且つフォロワーも多い著名人があのような作品を「泣いた」の一言だけで拡散させてしまうことの問題性について、指摘させていただきました

「君と宇宙を歩くために」を教科書にしないで

※一部加筆(最終2024.4.18)

※私はASDそしてそれとは関係なく心底イヤな奴、ネット公開で話題の漫画『君と宇宙を歩くために(第1話)』を読んで「みんな」の感想を見て「優しい世界」に触れて"二十億光年の孤独"を感じている、そういう文章

※求められる「普通」の基準が定型発達者にとっても苦しいものとなりHSPという概念が流行する世の中で、こういう作品が受けるのは良くも悪くも当然だとは思います。しかしこれだけ多くの人から称賛されている作品を同様に支持できる自分もまた「多数派」なのだという認識が持てないのであれば、いじめや差別の構造を理解することなど不可能だろうとも私は思っています。当事者の方(私ではない)が下記に述べるような指摘を行ったとき、この漫画の作者が、そしてファンたちが、その方にどういう反応を示したのか、私は忘れたりしません(別の記事を参照)。

障害者(私)が努力する(テザーを作る)のはそうしなければ生きていけない社会だからであってその労力を「個人の前向きな気持ち」で誤魔化されたくはないし、健常の方には「その姿に励まされて自分も一歩踏み出す」のではなくそんな(障害者にも健常者にも努力を強いられる)社会基盤を解体していくことを共に考えてほしいと思います、同時に、「努力」や「傷つき」は社会的弱者に荷重がかかりやすくなる不均衡なものであるという前提も忘れてほしくはないです。また「生きづらさ」という雑な括りだけで自分の状態を理解したつもりになってしまうことは、マジョリティの中にも当然ある多様性や固有の苦しみを自ら放擲しているのと同じことだと私は考えており、そういう態度の集合、換言すれば「うねり」のようなものが、現代の(侮蔑だけでなく妬みを含んだ)障害者差別を加速させているように、個人的には感じています

※多くの方に読んでいただいて恐縮なのですが私は「正しい」ことを言っているわけではないので数ある意見の内の一つと認識して頂きたいです(これはあくまでネット公開当時の、第一話のみの、私個人の、感想です)。私はASD当事者の中では厳しい部類だと思います(二次障害の重さのせいでしょう)から、ほとんどの当事者が私と異なる見解を示すのは当然のことですし、寧ろ多様な意見は参考になっています。ただし支援者だけは、このような物語に感動した自分と今一度向き合ってほしいと強く思っています

 

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漫画「君と宇宙を歩くために」、閲覧への事前注意喚起がされていないことを問題にしている方がいて、私もそれに賛同したこと(●1)と、それ以外のこと(●2tweet再掲)を、ここに残しておく(Twitterアカウントは削除)。

 

●1

「当事者の方を向いている」と当事者からも感動の声が上がっているらしいこの漫画。確かに主役に近い、グレーゾーン/軽度の発達障害/定型発達だけど生きづらさを感じている人の方を向いている漫画かもとは思うけれど、その主人公を成長させるために設定された、主役の一人でもある「宇野くん」は、強度のASDに造形されている割にその特性の描き方が雑でいかにも物語的に誇張されている。無垢さや幼稚さばかりが強調された「ヒューマンドラマ系フィクションに典型的なASD」のキャラクターだが、ASDの「幼さ」とは、あのラストのような「泣いた赤子がもう笑った」というものよりは「いつまでもこだわる、いつまでも記憶が薄らがない」類のものだ。定型発達者の記憶/記録がアナログであるのに比べてASDはデジタル的に記憶を保持し続けがちで、一度他者に抱いた印象を覆すことが困難だったり、何十年たっても不快な状況を鮮明に思い出したりして苦しむことが多い。だからこそ、本当に当事者の方を向いている漫画であれば、陰口や虐めがある学校のシーンに「宇野くん」のような当事者がどう反応するか、注意喚起の必要性を事前に理解することは難しくなかったはずだ。そしてそれが分かっていたなら、後半の見せ場、「宇野くん」が感じる恐怖だってもっと丁寧に描かれていただろう(ペースを乱される恐怖と恐怖からくる癇癪や場面緘黙の苦しみは当事者にとって本当に重いものなのに、ここではそれが主人公を主軸とした起承転結のコマとして利用されているだけだ)。仮に分からなかったとしてもせめて、「注意喚起をしてほしい」とTwitter上で訴えていた(どちらかというと「宇野くん」側の)当事者に対して誠実に対応することくらいはできたのではないか(作者は指摘に対してTwitterやインタビューで「ヒューマンドラマだから仕方ない」と発達障害のマイノリティ性を等閑、更に宇野くんには明確なモデルがおり自分はその人が大好きだという謎の釈明までしていて、この手の不誠実さには既視感しかない……と私は思った)。フィクションの中で誰かに(主人公や周囲の者に)何かを気づかせる役割として設定されやすい(風変わりでキャラクターとして使いやすい)発達障害者と、私たち現実を生きる発達障害者との間にある差異(そして周囲の反応の差異)に注意を向けられない創作者が描き出した「優しい世界」に感動し得るのは、少なくとも、「その差異」に傷つき居ないことにされてきた者たちではないはずだ。

発達障害はグラデーションであり、当事者間にだって無理解、差別、排除は嫌になるほど溢れている。この漫画を巡る状況もまた、「宇野くん」という紛れもない当事者が、(非当事者は勿論)「宇野くん」以外の当事者(主人公に近い人たち)によって都合のいい特性だけ搾取された典型的な一例だと個人的には思っている。ポジティブに描かれていれば(捉えられていれば)差別ではない、なんてことは全くない。寧ろ発達障害や知的障害においては常に「無垢さ」「優しさ」といった一見ポジティブな偏見が、現実を生きる多様な当事者を透明化し続けている。この漫画が「フィクションの外」に存在しないことにしていない、或いは読み手として想定した「当事者」はあくまで「主人公(小林)」であり、フィクショナルに発達特性を強調/削除されステレオタイプ的に描写される「宇野くん」ではない、そのことが示唆する意味を考えない限り、発達障害への偏見は永遠になくならないだろう。

(注:読者の自分が誰に感情移入したか、ASDADHDかグレーゾーンかの違い、に留まった話ではなく、文字通り「声を上げられない」「立ち上がれない」、フィクションの意味をつかめない、「違和感」というものを持ち得ない者たちが常に、(今もこれからも)配慮の必要性の対象から無意識に弾き出されていること、「自分たちという属性に抱かれているイメージ」でしか表象されてこなかったこと、そういうフィクションの歴史の上に「偏見」が醸成されてきたことの問題性を言っています。この漫画を称揚する緩やかな連帯と絶賛の嵐が実は排除している「何か」について語られるようになって初めて、この種の構造の物語は意味を持ち得るのではないでしょうか)

 

●2tweet再掲

(何らかの)特性の自覚も支援も有り得ない環境にいる(或いはグレーゾーンの)者の苦悩と希望に焦点をあてた発想は秀逸だと思った。しかしその主人公を成長させるために、良くある発達障害ものと類似の、純粋で、真面目で、無垢で憎めない(しかも高校生にして特性との向き合い方をほぼ完璧に習得している)「定型発達の人たちが受け入れやすい」ASD(と思しき)キャラクターを造形している点も、

一見周囲の人たちの理解が描かれているように見えて当事者個人の努力に重点が置かれ、彼らの勉強、歩み寄り(そしてもちろん物語の進行のための優しい他者)によって「いい話」に導かれている点も、

発達障害がイコール学習障害のように描かれている点も、

(姉と弟の関係など主題を覆しかねない諸々のマンガ的設定も、)

私は賛同(感動も)できなかった。

 

発達障害への差別って、「できないこと」を馬鹿にする罵倒する、だけじゃない。特にASDは、定型の人からすると和を乱す細かな指摘ばかりする存在(このツイートをする私だ)として面倒くさい/偉そう/人の気持ちを考えない等と認識されることが多く、総合的に「性格の悪い(きつい)ウザい奴」として、話の内容に関わらず聞く耳をもってもらえなかったり、排除されることが少なくない(もちろん全員ではない)。

「言葉の厳密さを追求してしまうこと」「肩書きや立ち位置を把握して(定型の人にとっての)適切な距離感で他者に接するのが困難なこと」は、性格というより、時に「家事や仕事をこなす労力が人一倍」である理由の中にも含まれる、発達特性の一種なのだが、「反差別」を掲げる人たちですら、ASDからの指摘を前述のような認識を露骨に見せつつ、まともに取り合わないことが多い。

特に、「思いやりにかけた」存在であるように定型発達者から言われ自身でも他者との違いからその認識を内面化せざるを得ないことも多いASDが、自分自身を一番「人間だと思えない」からこそ、公共の場に放たれた「人非人」「人としておかしい」「人権意識がない」等の言葉に強い疑念を抱いてする「指摘」を、そうすることが差別であるなんて思いもしない様子で等閑に付していたりする。

 

また私のように「女の子」として若い時分を過ごした者、勉強は人より出来るのに学校生活やバイトでは「無能」なタイプのASDが被る差別はこの漫画で描かれるような典型的に見えるものとは別種の複雑さを帯びており(舞台が男子校だったり、若く美しく理解の深いケア労働者としての姉と二人暮らし、という設定が「逃げ」ではないことは2話以降に期待したい……が、この手の主題の物語に「感動」しつつこの設定に引っかからない読者は流石にマンガ慣れしすぎではないかと思う)、「できないこと」は他の当事者と同じくらい多いにも関わらず、定型発達者からだけでなく非定型発達者からも「できないこと」を信じてもらえなかったり、避けられたり疎まれたりする(もちろん逆側の、学習障害などをもつ当事者を高IQの発達障害者が侮蔑するという差別もあり、こちらの問題も根深い)、「優等生」とか「理詰めで話す」という属性がある限り、また勉強が不得手でも「優しさや可愛げ」がない限り、

誰からも同情されない、

同情されない者は差別される者として認識されない、

それが発達特性によるものであっても、共感や共同体に連なれない者はマイノリティとしてカウントされない、

ここにも「声高に何かを訴えるのではなく自助努力に専念する(マジョリティからだけでなくマイノリティからも)受け入れてもらいやすいマイノリティ像」の呪いそして

「障害=無垢、善人」の呪いがあって、

故にこういった、フィクション的に典型的で表面的な発達障害のキャラクター設定、差別の描かれ方をする作品が増えるたび、発達障害の表記がないから「こそ」、世間に漂う漠然とした既存のイメージ(要するに偏見)がますます固定してしまい非定型発達内の多様性も差別の複雑さも(当然個別の性格も)矮小化されていき、よもや自分は発達障害差別などしないと思いこんでいる「発達障害の一面にのみ理解がある人」「幼くて無垢で優しい障害者にはあたたかい眼差しを捧ぐ人」「差別する人なんて人間じゃない、狂っている、頭が沸いている、と宣う反差別の人」たちから、透明化され差別され排除され続ける未来を、(難病患者でもある)私は危惧してしまう。加害者への「支援」にも「死刑廃止」にも関心が乏しい国に生きていることを、否が応でも実感する。畢竟、重視されているのは共感、同情、親近感、「人間らしさ」なのだろう……

 

……この漫画から思わず連想してしまった愛すべき「さかなクン」を目指すべく、私も普段から定型の人の気分を害さない対人努力はしているけれど、疲れ果てた時は思い切り叫びたくもなるのだ、「発達障害や知的障害を純粋さと繋げて優しい話に仕立てて分かった気になるなよ、あなた達が軽蔑しているイーロン・マスクだってASDなんだよ!」と。

 

 

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最後に、嫌われ者の独白。

 

「みんな」の思う優しさと私の言動が違っても、誰かを傷つけたいわけじゃないんだよ、

一人でいさせて欲しいけど、自分だけ良ければいいと思っているわけではないんだよ、

細かく複雑な言い回しに聞こえても、「あなた」を追い詰めたいわけじゃないんだよ、

「家族が亡くなっても泣かないなんて人間じゃない」と言われても、怒ったり、号泣することだってあるんだよ、

 

……でも確かに私はイヤな奴だ、人の気持ちがわからない、こうやって「みんな」の感動に水を差す、自己中心的で「人間の心がない」何かだ、一方的で、挙動不審で、「頭がおかしい」「会話ができない」「行き過ぎた反差別」の何かだ、「連帯感をぶち壊す」ひねくれた奴、「距離感のおかしい」面倒くさい奴、しつこくて言葉がキツくて態度がウザくてクソ真面目でとにかく「イヤな奴」。……30年以上いろんな「人間」と関わってきて、自分が、私が一番、それをよく知っているんだよ、

分かってるんだよ、

分かってるけど、

分かってるからこそ、

 

 

乗り越えたい

 

人間とか地球とか

 

"万有引力"*1から自由になって

 

共に生きるためにこそ、

 

 

 

 

宇宙は一人で歩きたい。

 

 

 

 

 

*1:"万有引力とは ひき合う孤独の力である" 谷川俊太郎/二十億光年の孤独

児玉美月さんへ(私信に似た何か)

※この文章は、私には同じ類いの問題を含んでいるように思える『こちらあみ子』と『怪物』に対して、前者は称賛し後者には疑問を呈している"クィア批評家"の児玉さんに向けた、疑念と期待の私信であり、一連の話から離れてきちんと病気療養をとるための私自身の気持ちの整理日記でもあります。この件(あみ子と怪物)について私は児玉さんと考えを異にしていて、それを批評業界の話に広げつつ軽い批判も含んだ懇願を何度かしているのですが、はじめに「当事者の声を無視してはいけない、これから(ブログを)良く読んで考えます」というメールを頂いたきり一切応答してもらえていないので、その後本当に読んでくれたのか、考えてくれたのかは定かではありません(連れ合いに同じタイミングでツイートしてもらうよう頼んでいたのですがそちらには反応して私には無反応が続いたのも恣意的に感じられてしまいました)。不誠実とまでは流石に思わないけれど私も私でもやもやするので、ここに最後のメッセージを残させてもらうことにします

※勘違いされると困るのですが、私は他で散見された児玉さんを不当に貶める言説に与する気は一切、ありません。児玉さんが日本の映画業界に対して貢献していることの大きさを、映画自体と映画に触れるクィアたちに向けた誠実さを、心から尊敬しています

 

 

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『怪物』関連で今、児玉さんが柵と攻撃の中で奮闘しているらしいことを知り、そのような状況では『こちらあみ子』関連の私からのメッセージもまた圧になりかねないと判断したため、もう私から児玉さんに何かを振るのは終わりにしようと思い、こうして最後の文章を打っています。すぐにではなくてもいつか何か書いてくれれば……とはじめは思っていたものの、(私がしたような指摘には)公に何も触れてくれないまま別件には大見得をきる姿に若干不信感が沸いてしまい(「信念を曲げてまで欲しい仕事などな」くとも、金銭を受け取った仕事については何も言えないのでしょうか……)、これはきっと批評業界全体の問題なのだろう(というかそういうつもりで考えてほしい)と話を蒸し返すようなことをしてしまったことを、反省しています。しつこくて本当に済みませんでした。

 

 

ただ、トランス差別反対を掲げていても無邪気に精神疾患/知的障害等を踏みつける発言をする人々に日々ふれる中で、児玉さんのような信頼に足る人にまで、しかも公の場で、マイノリティとしての発達障害の当事者性を無視されるのは、本当に辛く、悔しく、悲しかったです。そのことだけは、最後に強調させて下さい。

 

 

……匿名だからこの際書いてしまいますが、私はASDADHDはもとよりDV被害・性暴力被害(発達障害の人が受けやすい典型的な形と医師からは言われた)から複雑性PTSD鬱病ほか幾つかの精神疾患を発症さらにそののちME/CFS含む3つの難病を併発して患うことになった身でもあります(またアセクシャルの自覚からフェミニズム批評クィア批評を好んで読んでいます)。当然いじめや貧困とも無縁ではなく、弱者であるほどより弱い立場に追い込まれやすい(複合的マイノリティになりやすい)ことを、身をもって痛感してきました。だからこそ、精神疾患患者からのトランス差別が、GSRM当事者からの精神疾患/障害差別もしくは透明化が、ネット上の言説では特に無自覚に行われている(差別する相手を非難するために「頭がおかしい」とか「空気よめ」とか「人でなし」という差別語を気軽に使ってしまう「反差別」の人が少なくない)ことに対して、やるせなく耐え難い感情を抱いています。せめて、児玉さんのような真摯な"クィア批評家"には、その現状を打ち破る視点から『こちらあみ子』を評していただきたかったのです。

 

 

児玉さんにしてみたら「発達障害のことなんて知らないよ」といったところでしょうが、(繰り返しになりますが)残念ながらあらゆるマイノリティは重なりやすい性質をもっていて(病気、性被害、虐待、いじめ、貧困etc) 、それは児玉さんが批評の主軸としているGSRMについても例外ではないはずだと思います。私が『こちらあみ子』にしつこく拘るのも、子どもの時点で適切な環境/支援/知識にたどり着く(周りがフォローする)ことができればその後わたしが経験したような種々の被害や病気(二次疾患)に関わってしまう可能性を下げることができると思ったから、そして無責任にあのような映画を作り称賛し実際の当事者たちの困難は他人事として関心すらもたない大人たちの手からかつての自分を(もちろん今の子供も)助けられるかもしれないと思ったから。……この気持ちは、いま私が『怪物』に対して抱いているものと、そして多くのクィア当事者が『怪物』に対して唱えている「否」と、合致する部分が多いと思うのです。要するに、別ジャンルの話なんかでは、決して、ない。

 

 

……どうか、そのことを少しでも、ほんの少しでも頭の片隅に置いていただいて、今後は多方面のマイノリティにも想いを馳せた"クィア批評"を目指していただけないでしょうか。

 

 

病身でこれ以上疲弊するのも嫌なので、私はもうこの先、日本映画の批評も、児玉さんの文章も、読むことはないと思います。けれど、児玉さんがGSRM当事者をどれだけ勇気づけ、救っているかは、私もよく理解しているつもりですし、このさき児玉さんが、GSRM以外のマイノリティも蔑ろにしない、踏みつけない、より広い視野を射程にいれた"クィア批評"の地平を開拓してくれることを、誰よりも期待しています。

 

 

私から伝えたいことはこれで全てです。 読んでくださったとしたら、ありがとうございました。

 

……もしかすると、この次、私が児玉さんの"ことば"に触れるのは、児玉さんが撮った映画を観るときなのかもしれないと予感しながら、

 

今後益々のご活躍を、お祈り申し上げます

「怪物」の在処と批評の在処

※追記1是枝監督について(2023.6.14)

※追記2朝日新聞鼎談について(2024.4.18)

 

●「あみ子」の記事を告知するためだけに連れ合いに作成してもらったTwitterアカウントは本来の役目を終えた後、全く機能していなかったのだけれど、映画『怪物』への批判的な言説がクィア当事者からは勿論、批評に携わる人たちからもあがってくるのを見ている中で、少し思うことがあったので投稿させてもらった、それを記録としてここに再掲しておく(アカウントは予定していた期日に消去済)。

 

●以下、連続10tweetを区切りなく再掲。本屋lighthouseのニュースレター「映画『怪物』を巡って」(坪井里緒)に対する意見として

 

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(ニュースレターで坪井さんの文章を読んで)

本当にその通りだと思います。ただ、執筆の方が映画雑誌(批評)に関わりがあるようなので、一点付け加えさせて下さい。

私はかつて、映画『こちらあみ子』に関する問題点をブログで指摘しましたが、「あみ子」も骨子(及びそこから派生する問題)は『怪物』(及びマイノリティを主題とした日本映画の多く)と同類のものと認識しております。しかし坪井さんの文中にも出てくる某批評家は、『怪物』には疑問を呈しながら「あみ子」のことは称揚しており、その「区別」含む各種批評家たちの『怪物』批判の文中に私は、批評の精度がレトリックで、映画の精度が美しさで誤魔化されてしまうことの相似を見ずにはいられません(……念の為そえておきますがその方のお仕事の全体については本当に尊敬しています、ああいう方が業界内にいてくれることに感謝しています)。


『怪物』含め、是枝監督がこれまでずっと描いてきた主題としての「子ども」とその描かれ方、物語の閉じられ方(開かれ方)に対して、批評家たちは『怪物』と「クィア」のようには真摯に向き合ってこなかった、それが連綿と続いた結果、このような映画が生まれたのでもあって、そこへの自省を欠いた批評群には、この監督の作品群にも通底する問題(端的にいえば「考えなければいけないというポーズをとり続ける大人」の視座から動けない膠着したロマンティシズム)が含まれているように思えます。件の某批評家のように、ジェンダー/セクシュアリティがモチーフになっている時は問題提起する(できる)けれど、それ以外のマイノリティがモチーフの時にはそこに含まれる差別や搾取が見えない(指摘しない)のだとすれば、その特質ゆえに当事者からの意見があがりにくい(あがり得ない)多種のマイノリティや子どもの問題は永遠に無視され、同じ骨子の映画は再生産され続けるでしょうし、
(当事者としての自分ではなく)「批評する者」としての「自分」含む(主題に対する)マジョリティが「自然に」感じるだろうこと=「美しさ」を(是非とわず)前提に(批評)文を進める鈍感さが、それこそ文体の表面的な正しさ(レトリック)で流されてしまう時、そこに読み取れるのはやはり、『怪物』がマイノリティ(クィア当事者……或いはあらゆる困難のなか生きている子どもたち)に向けている愚鈍で怠惰で傲慢な大人の視線、それと同質のものだと、私には思われます。

長くなりましたが、
同様の構造の映画を同じ批評家が肯定/否定することと、同じ監督の映画が作品ごとに肯定的/否定的にとらえられることとの狭間に見えてくる「区別」に、作品の言葉と批評の言葉との「相違」に、そして「子ども」にまつわる表象の全てについて、批評に関わる人たちはもう少し考えていただけたら……と(クィア批評家にも無視されがちなマイノリティの一員として)日々思っています。特定の監督や批評家を腐したいわけでもクィアの話に別問題を被せたいわけでもないです、内容には全面的に賛同していて本当に本当に大事な指摘だと思っています。偉そうなことを言ってすみません乱文失礼いたしました

 

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●今回は偶々これを読んだからここにtweetしただけで別にこの方の文章に否と言うつもりはなく映画業界で批評に携わっている人になら誰にでもこの話をしたい気持ち……

だったのだが、やはりこの文面の中にどうしても看過できない言い回しがあるので追記する、これもまた批評全体に関係する話だけれど、『警告''ごとき''でその作品の面白さが損なわれるのであれば、それはただ単に作品の力不足にすぎない』と坪井さんは書いていらっしゃるけれど、それは違う。力不足なのは作品や作者だけでなく、視聴者や読者の我々もまた同じなのだと思う(且つ言うまでもなく作者もまた視聴者であり読者である)。インターネットを通して、誰でも手軽に、無料に近い形で様々なコンテンツを大量に消費できるようになった現代、日々大量に寄せられる情報に対処するために、刺激の無さや理解のしにくさ、長さや複雑さ、辞書を引く必要や調べる手間を無意識にも回避したがっている「消費者」はとても多く、作者個人だけではない編集やプロモーター含む「制作側」は、常にその動向を読みながら、コンテンツの提供を続けている。だから仮に作品が本当に素晴らしいものだったとしても、時間に追われ刺激に慣れきり新しいものに次々飛びつく現代の受け手たちには"警告ごとき"で、その作品の良い所が全く見えなくなってしまうことは、当然あると思う。大切なのは、コンテンツを享受する我々もまたその映画を、漫画を、小説を、ゲームを、形作っている一員だとしっかり認識した上で、短絡的な刺激的なものを欲しているのは自分たち自身でもあると、相手は写し鏡でもあると、分かった上で、作品のあり方に言及すること。その過程を省いて制作側にだけ「指摘」を続けていても、同じような作品はきっとなくならないだろう。一消費者にその自覚を要求することが(現代の社会事情では)酷だったとしても、批評に携わる人ならばその辺り、もっとしっかり考えた方がいいのでは、と思ってしまう……

……まあそれだけでなく、近年の映画批評(家)は商業的に映画業界(のプロモーション)とズブズブで、そのことが作る人や視聴する人に与えているかもしれない影響(個人の実感を越えて生成されていく評価)自体は振り返らないのによくもまあ……と思うことが、まま、ある……

 

 

※追記1

「是枝監督は社会問題に真摯では?」という質問をいただいたので、私なりの答え。

この監督が「社会派」「反権力」「人格者」なのは分かるけれど、『怪物』がそうであったようにこれまでの作品でも、ドキュメンタリーではなくフィクションを選んでいるのに「問いかける」「マジョリティからマジョリティにつきつける」以上でも以下でもない表現に終始している点を、私は支持できずにいる……それぞれの当事者には今この瞬間の/これからの「生存」がかかっているというのにそれよりも優先されて見えるのが「当事者を見る人たち」「映画を観る人たち」への「問いかけ」であることに疑問を感じてしまうのだ。勿論、可視化や気付きは大切だけれど、フィクションに関しては本当の意味で当事者目線のものを作れれば結果的にそれが一番、「観る人」に対して「見えていない世界」と無自覚な特権性を突き付けることに繋がるのではないかと思うし、それが諸刃の剣であることに留意は必要ながらも、「考えさせる」だけでなく人々の「当たり前」を緩やかに/速やかに変えうる力をもつのが「フィクション」だと私は思っているので……

※追記2

2024年3月朝日新聞に『怪物』をめぐる坪井さん、児玉さん、是枝さんの鼎談が掲載された件。反差別界隈(?)の皆さんは称賛しているようだけれど、坪井さんも児玉さんも他者のことは糾弾するのに自分が差別性を指摘された時はまともに取り合おうとしない人たちだから私は冷めた目で見ている(ハッシュタグの使い方も安易に過ぎて賛同しかねる)し、是枝さんに至ってはあまりにも……あまりにも素朴で、呆れるほかない