nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

愚痴(あみ子のブログに関して)

発信の過程で苦しかったことを、個人的な記録としてここに残す。

 

映画「こちらあみ子」が公開されてからの苦悶、それをなんとか言葉にまとめ、発信し、手応えを得た(或いは得られなかった)、その一連の流れの中で取り返しがつかないほど悪化した体調、精神状態。発達障害当事者だけでなく難病患者でもある私が、普段インターネットの使用すら医師に禁じられている私が、あのぐちゃぐちゃの、ただのパラグラフの集まりでしかない駄文を書くことに使ったエネルギーの大きさと薬の量は、確実にこの心身を削っていった。

 

(指摘に対応してくれなかった)批評家の皆さんにとっては、一本の映画を称賛しようが批判しようが痛くも痒くもないのだろうな。でも私は違う。多くの人に読んでもらうために極力やわらかく書いた記事だけれど、本当は……

 

……本当は、心の底からうんざりしていて、モヤモヤ悩み苦しんで、それをやったら(私の病気にとっては)命に関わることも承知の上であれを書いた。色々なものと引き換えに、もちろん一円だってもらっていない。

……けれどこの行為によって分かったのは、「自分は健常者ではない」という圧倒的な、打ちのめされるのに十分な事実だった。

重いスマートフォンを持つことも(私の握力は5を下回る)、文字を打つことも、文章を考えることも(脳の病気なのだ)、自分が他者に対して一方的に抱いた(いま思えば大袈裟な)怒りを認めることも、有難いレスポンスを読むのも(しかしこれほど支えになったこともない)、届いてほしい人に限ってスルーされるのも、全てが体にダメージを与え、食事をとる体力すら残らなかった。体重は35キロを切った。入院をすすめられた。

 

ほんの簡単なブログ記事をアップすること。たったそれだけのことが、しかも好きでやったことが、私には命がけの労働であった。今も昔も、そしてこれからも、自分は「何もできない」人間なのだと、もうこれまでの人生で散々分かっていたことを、再び思い知らされることになった。 ……なんて書くと、同じ性質や病気で色々なことに前向きに取り組んでいる人たちに失礼極まりないことも分かっているけれど分かっているからこそ表だって言ったことはないわけで、せっかく匿名のブログにしたのだから一度くらいありのままを記してみたい、誰にも言ったことのない気持ちを。……それは多分、他でもない自分が一番、向き合えなかった感情でもある。

 

 

言語化能力だけじゃない、共感能力、そして体力。声をあげられる人の声だけで回っているように思えて最近ではフェミニズムダイバーシティをとり扱う雑誌を読むのがしんどくなって、でも本当は分かっている、みんなそれぞれの事情、得手不得手、辛いことを抱えながら何かに取り組んでいるということ、誰もそんな大した人間ではないということ、分かってはいるけれど、

お馴染みの名前が並ぶ誌面に疎外感を感じ、当たり前だけれど私が欲しい言葉がどこにもないことに失望する。「いろいろな声」とか「リアル」とか「シスターフッド」とか。そのメンバーで、どんな認識でそんな風に名乗っているの、と鼻白んでみても連想的に学生時代の文化祭が脳裏をよぎり自分の「空気の読めなさ」「共感能力の低さ」を 再認識すれば間違っているのはやはり他の誰でもなく私であると、結局自分で自分をジャッジして終わる。その繰り返しで疲労がたまる。

 

「自分は凡百のフェミたちとは違って客観的な視点ももっていますよ、現実的で中立的ですよ」というスタンスの「フェミニスト」は当然論外で私とは相いれない性質だと感じるけれど、かといって「これは私たちの問題です」と高らかに言われた時その「たち」に自分が入っているように感じられない、正確には閉め出されているように感じるのは何故だろう、読んで励まされたり学びを得ている感覚も確かにあるのに「そこ」に書いている人たちには私の言葉が「伝わるわけない」という絶望も感じてしまうのは何故なのだろう。

 

 

……私には分からないのだ、フェミニストだったりクィア批評家を名乗る人たちが、個々人の活動を尊重しあっていると標榜しながらも相手の語りをすぐに自分の物語に回収するような「表現」を選んでしまえるのは何故なのか。「共鳴」のような感傷を想起させる、「物語的な表現」を選ぶ人が多いのは何故なのか。「差別主義者を断定するのではなく差別を批判する」と言いながら同じ文章内で具体的な個人名をずらっと並べてしまえるのは何故なのか(それは極私的な反差別主義者の断定、そして排除ではないのか)、差別の根は繋がっているといえどもそれぞれがそれぞれの動機でそれぞれのやり方で書いていることを、どうしてあたかも自分の類縁であるように解釈してしまえるのか……少なくとも私は「こちらあみ子」への疑念を端からはそう見えなくてもフェミニストの(広くマイノリティの権利もちろんニューロマイノリティもセクシュアルマイノリティも含めた権利を考えての)自認から書いた、一人きりで始めてとても心細かった、けれどだからこそ「ハンマーが響きあう」みたいな表現をもし使われたら、「私の何を知っているの?」と真顔で問い返すだ ろう。コツコツどころじゃない、岩を噛み砕きながら血を吐きながらでないと書けなかった、病を抱えた無名のフェミニストのやり方も動機も道具も、決してあなたと一緒ではないし、往々にして(今回のように)あなたがたは(私の)その無様な姿を無視して踏みつけていくではないか。或いはまた、コツコツではなくフワフワと、猫を撫でるように書いている人だっているかもしれないだろう、心細さはそれぞれだ、定型発達と非定型発達の違いは無論、大学教授とフリーライター、家族や友人の有無、差異は星の数ほどあるのにどうして無意識に無神経に自分の延長のように「繋がり」や「響きあい」を見いだしてしまえるのか、それを美しいもののように語ることを疑わないのは何故なのか、最近の多くのフェミニズム特集雑誌を読んで私が感じる違和感は恐らくこれに尽き、「アナタガタハ少シモ私ニ似テイナイ」という山尾悠子氏の言葉を思わず口走りたくなるものの山尾氏自ら「若書き」と後に回想するように、これは最早中年といえる齢の私にいつまでも消えない幼さのせいなのだろう。それでも、

 

同じ山を登っているように見える「他人」のことを自身の共感あるいはその媒体での連帯感で無意識にコーティングするような(敬意は敬意で独立して存在し得るのに)最近のフェミニズムの風潮が、共感能力に乏しい私にとっては限りなく「排除」に近いものに感じられることがあるのは確かで、「健常者至上主義」は流石に言いすぎだとは思うけれど(病や障害を抱えつつ活発に活動するフェミニストもいて尊敬する、でも何かしたくてもできない当事者たちはその何十倍もきっといる)、ため息混じりに「共感能力至上主義」と揶揄したい時がある。「正しい人」「明るい人」「いい人」。そう周りから判断されることが、マイノリティ当事者にとって(当事者だからこそ、そして肩書きがなければなおのこと)「自分の声を無視されないための命綱」になってしまうような仲間意識(……皮肉にもそれは差別する側とそれを批判する側どちらからも押し付けられる意識なのだけれど前者は仕方ないにしても後者の人たちもそれに無頓着であることに戸惑う)の外にいて私は何度でも「学生時代の文化祭」を思い出してしまう、修学旅行や合宿やゼミに参加できなかった自分がよみがえる。おかしいのは「正しくも明るくもいい人でもなく」肩書もない、人間嫌いな自分のほうだと、ずっと昔から、知っている、知ってはいるけれど。

 


もちろん「ASDは共感能力がない」という偏見は今すぐここで爆破しておきたいが、私自身は限りなく「共感能力が低い」ほうであり、どこまでが発達特性でどこからが性格なのか考えることにあまり意味を見いだせないけれど取り敢えず自分をこれ以上駄目だと思わないためにもフェミニズムをこれ以上重荷に思わないためにも言いたいのは、「共感能力が低い」人はいじめや差別に加担しやすいと宣う人が(フェミニストにはたくさん)いるけれど、他人に興味がないから(問題を)スルーしてしまう可能性と、人間関係に興味がないから(問題を)発見できる可能性と、実は半々ではないのか、ということだ。「こちらあみ子」の問題は明らかにマイノリティの当事者性に関わることなのに、フェミニズムに見識の深い人たちがそれを見過ごすどころか称賛までしていた事実を、私は忘れない。言い換えれば私のようなニューロマイノリティ、或いは(比喩的にも文字通りにも)声をあげにくい性質の者(いまの私はほとんど寝たきりで本一冊読むのも映画一本みるのも命懸けなのだ、そんな思いまでして観た映画にこれほど傷つけられるのなら、もう一生映画なんて観たくない……)が自称フェミニストとしてできることは、大文字のフェミニズムが取り零すものを拾い上げ、その違和感を、こうして小さな「かたち」にまとめていくことくらいなのかなと思う。誰かに届けるとかではなく。

 

 

それにしても。

 

 

 

 

 

あーーー疲れた!!!