nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

「違国日記」作者発言と自称(発達)障害

※一部修正(最終2024.4.18)

※誤解を招きそうなので最初に申し添えておきますが、私は「確定診断」に価値をおいているわけではなく(診断は医師によってばらつきがあるし診断が出たから解決する問題なんて無い)、セルフ診断だけで他言しないで診察に向かうことの大切さと、「検査なんてしなくていい」と「自己判断できる理由」が実は発達障害を巡る諸問題と密接な関わりを持っていること、診断を受けていない者が安易に公の場で「障害」と口にすることの問題性について、丁寧に考えていかなければいけないと思っています

 

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「違国日記」という漫画が完結して話題になっているけれど、私はこの漫画、(今のところ)たった4巻で挫折してしまった。その理由は「漫画の内容」より「著者の態度」にあるという話を、簡単に記録しておきたい。これまでのブログにも関連する話題として。

 

4巻までしか開いていないとはいえ、ページをめくるたびに光の粒や風の流れが溢れ出てくるような繊細な線とモノローグで、十代の心の揺れや人と人とのわかりあえなさ、苦しみや安らぎが丁寧に描かれていくこの漫画を、私はとても好ましく思っているのだけれど、

 

現実でも複数人でのやり取りに頭が混乱する私は、餃子を包んだりお酒を呑んだり主人公が仲間と戯れているシーンにおける、漫画のコード(吹き出しと人物が離れたり、ニ等身になったり)と現実社会の会話のコード(今時の言葉遣いや、意味をなさないやりとり)の掛け合わせによって作られる「リアルっぽい(つまり定型発達的コミュニケーションが不得手な私にとっては限りなく嘘くさい)表現」というものがとても苦手で、こういうシーンが多い漫画を読んでいると、無駄に疲れたり落ち込んだりしてしまう。

 

だから、曇りなく、心から、本当に素敵な作品だとは思うけれど、
とてもとてもいい作品だとは感じたのだけれど、

 

4巻ラストの唐突な恋愛的展開も含めて、これは私が読み進めるような漫画ではないのかも……と、元々少し迷っていた節はあった、そんな時に、不運にも見つけてしまったのが、以下の著者コメントだった。

 

ヤマシタ メインのテーマのひとつが発達障害で、それを多様性と言ってしまうとあまりにもざっくりとしすぎてしまうんですが、メインの登場人物を発達障害の人にしようとは決めていました。以前にTVで発達障害のことをやっていたときに、あまりに自分が当てはまったのですごくびっくりしたんです。今更びっくりしているということは、これからびっくりすることになる人たちも世の中に結構いるのでは!?と思ったので、描こうと。
https://note.com/feelyoung_ed/n/n9001d551be82

 

……確かに、発達障害の傾向にありながらも、未診断で問題なく生活できている人はいる。しかし病院に行くほどの不調はない、検査の必要性も感じられない、失職や離縁を繰り返す等の困難がない人は、正確には発達「障害」とは言えない。大人気漫画家であるこの著者のように「未診断&社会生活に問題がなく気が付かなかった」のなら、仮に診断基準を満たしていたとしても「発達障害」ではなく「非定型発達」というのが妥当で、まずその辺りの、「障害」という言葉に対する認識の粗さが、とても気になってしまった(曲がりなりにもテーマのひとつと言っているのだから、色々調べてはいるはずなのに)。

 

更に言うまでもないことだけれど、テレビやネットの「セルフ診断に当てはまる」からといって、その人が発達障害(の傾向にある、グレーゾーン)というわけではない。「片付けられない」「仕事でミスが多い」「人間関係がうまくいかない」「社会性がない」「炎上発言を繰り返す」「こだわりが強い」等、発達特性の指標として提示されがちな特徴のいずれも、そしてもちろん生きづらさや苦しみも、程度の差こそあれ誰でも持ち得るものであって(そもそも発達障害自体グラデーションである)、医師はそこだけをみてその人を発達障害と診断しているわけではない、フィクションで描かれる発達障害者のイメージとかけ離れた当事者だって多くいる(片付けられない発達障害という偏見は根強いけれど、非定型発達ならではの脳内の混乱をコントロールするために、何も持たない片付ける必要のない生活を徹底して維持している当事者は私だけではない)。セルフチェックやフィクションによってもたらされたイメージ、ステレオタイプに沿って自身を「診断」し口外してしまうことの危険性は、命に関わったり目に見える他の病気や障害で考えてみればすぐに分かることなのに何故か発達障害の場合はそう認識されないことが多く、この著者のように茫漠とした発言をする「自称発達障害」は後を立たない、その(検査や診断を仰がず自分で決めつけ公言してしまう)態度は、他でもない自分がもっている発達障害への根深い偏見、思い込みから生まれてきているということにも、気づいていないらしい。

 

……とはいえ、私は、この著者が未診断のまま適当なことを言っている様子を責めたいわけではない。冒頭にも書いたが、診断か未診断か、発達障害かグレーゾーンか、そういった線引きをしてどちらかを優遇したいわけでもない。寧ろそういった「線引きの問題」も含めて、発達障害をめぐる現状、この社会を当事者として生きることの意味(個性と言いくるめるにはあまりにもデメリットが多い)を侮っているからこそ公の場で軽々しく「多様性が〜」「テレビを見て〜」と言えてしまえるのだろうその言葉の扱いの雑さ、マイノリティに対する理解のなさと自身の発信力への無自覚さ、を前にして、途方に暮れている……というところだろうか。

 

失職や二次障害など金銭的にも追い込まれた状況で(継続的な就労が難しかったり精神疾患を併発している発達障害者は少なくない)救いを求めて(人によっては)高額な検査を受けざるを得ない或いは受けられない人たちの困難を、
検査を受けたけれどグレーゾーンゆえ福祉に繋がれなかったり公言をためらわざるを得ない人たちの逡巡を、
具体的な社会的差別の存在を前にクローズ就労や(多大な労力を伴う)擬態を続ける人たちの存在を、
個人の内面の問題にとどまらない、常に社会と往来する形で存在する発達障害者の苦難を、

 

この方は、どのように考えているのだろう、どのような理解のもとに、ああいったコメントをしたのだろう?

 

……漫画の続きを読めばもっと深い理解が描かれているのかもしれないけれど(嫌味ではなく本当に丁寧で素晴らしい作品と感じたので……)、日常的に自分の属性に対する差別で苦しみ、頻繁にフラッシュバックを起こす私や私のような人たちが、この著者コメントに先に触れ、呆れたり、自分にしか/自分にもわからないトリガーを危惧して作品を読むのを中断してしまったら、その後この漫画がフィクションとしてどれだけ素晴らしく展開していったとしても、著者自ら『メインテーマのひとつ』であると語る「発達障害」の扱いについては成功していると言ってはいけないのではないか……コメントする著者と同じ『フィクションの外』を生きている「発達障害」の私は、そんな風に思ってしまうのだ。

 

「自称発達障害」の増加だけでなく東京ブレインクリニックの問題、「HSP」という概念の流行に対して、診断済み当事者が何かを言うこと自体が「当事者(弱者)特権」の行使でありグレーの排除であると「認識」されかねない状況であること(そしてそれ故、何かを思いつつ黙している当事者が沢山いること)は十分承知しているし、しつこいようだが「真の当事者」を規定したい訳では決してない、けれども、特質(属性)によって生活がたちいかなくなるほど苦しんでいる人を無駄に傷つけることなくグラデーションに位置する人たちにも寄り添うためには、細かな現象/言動を慎重に見直していく必要があるはずだし、立場の違う各々が違和感を表明しあって様々な見解が積み重なることによってしか、事態が膠着状態(0か100か、善か悪か、正か誤か、診断か未診断か)に陥るのを防ぐことはできないだろうと思う、それに、

 

ここまで書いてきたようなことは私が他に経験してきたいくつかの病気に対しても当てはまることで(鬱病複雑性PTSD化学物質過敏症線維筋痛症、ME/CFSほか)、見た目にわからない病気や障害が無知や無理解を前提として(繰り返すが無知や無理解を前提として)「私もそれかも!」「みんなそうだよね〜」と簡単に言われてしまいがちなことに違和感を抱きながらも沈黙している当事者は、マジョリティが想像するよりずっとずっと、多いだろう、

セルフ診断の項目のようなものだけで、

フィクションのイメージだけで、

自身を当事者だと公言したり当事者を「そうは見えない」と勝手に規定したりする人が後を立たない病気や障害やある種のマイノリティの当事者たちが抱いてきた悔しさや悲しさやるせなさを(当事者同士の)共感の外に出して全体的な問題として考えていくためにはせめてまず、ヤマシタトモコさんのような発言力や拡散力のある人が公の場でするマイノリティへの言及の形を、もう少しだけでも丁寧なものに変えていってほしいと切に願うのだ、それは友人との会話とは違うのだから。

 

 

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※因みにあくまで私の周囲に限った話ですが、ASDの知人同士で話していると、HSPに対する(どちらかというとネガティブな)議論で盛り上がることが少なくないのですが、自身の「発達障害」と向き合いきれなかった私には、「天然ボケ」「不思議ちゃん」「B型」そして「HSP」という概念を利用して自分も周囲も欺いていた時代があり、その自分の態度に隠されていた(「障害」に対する)差別意識を思うと、HSPを公言したがる人たちについて、何かを言う気にはとてもなれません(もちろん心の中で軽く参考にする程度ならいいと思うし様々な事情で今現在、過去の私のように振る舞っている発達障害者を批判するつもりもないです)。けれどこのブームが、ある種の差別意識や排除の感覚、自己責任論の強化に繋がっている面は確かにあると感じており(……そもそも一次情報にあたって語源や背景を理解できていればHSPとかカサンドラ症候群という言葉は安易に使えないと思うのですが……)、発達障害と関連する問題として今後も考え続けていきたいな、とは思っています