※一部加筆修正(最終2024.8.22)
※誤解を招きそうなので最初に申し添えておきますが、私は「確定診断」に価値をおいているわけではなく(診断がおりれば解決する/許される問題など皆無)、セルフ診断だけで他言しないで診察に向かうことの大切さと、「受診なんてしなくても分かる」と自己判断(自分が迷惑だと感じる上司/級友/夫などを勝手に「発達障害だ」と判断して糾弾することも含む)できる理由が、実は発達障害を巡る諸問題と密接な関わりを持っていること、診断を受けていない者が安易に公の場で「障害」と口にすることの問題性について、丁寧に考えていかなければいけないと思っています
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「違国日記」という漫画が完結して話題になっているけれど、私はこの漫画、(今のところ)たった4巻で挫折してしまった。その理由は「漫画の内容」より「著者の態度」にあるという話を、簡単に記録しておきたい。これまでのブログにも関連する話題として。
4巻までしか開いていないとはいえ、ページをめくるたびに光の粒や風の流れが溢れ出てくるような繊細な線とモノローグで、十代の心の揺れや人と人とのわかりあえなさ、苦しみや安らぎが丁寧に描かれていくこの漫画を、私はとても好ましく思っているのだけれど、
現実でも複数人でのやり取りに頭が混乱する私は、餃子を包んだりお酒を呑んだり主人公が仲間と戯れているシーンにおける、漫画のコード(吹き出しと人物が離れたり、ニ等身になったり)と現実社会の会話のコード(今時の言葉遣いや、意味をなさないやりとり)の掛け合わせによって作られる「リアルっぽい(つまり定型発達的コミュニケーションが不得手な私にとっては限りなく嘘くさい)表現」というものがとても苦手で、こういうシーンが多い漫画を読んでいると、無駄に疲れたり落ち込んだりしてしまう。
だから、曇りなく、心から、本当に素敵な作品だとは思うけれど、
とてもとてもいい作品だとは感じたのだけれど、
4巻ラストの唐突な恋愛的展開も含めて、これは私が読み進めるような漫画ではないのかも……と、元々少し迷っていた節はあった、そんな時に、不運にも見つけてしまったのが、以下の著者コメントだった。
ヤマシタ メインのテーマのひとつが発達障害で、それを多様性と言ってしまうとあまりにもざっくりとしすぎてしまうんですが、メインの登場人物を発達障害の人にしようとは決めていました。以前にTVで発達障害のことをやっていたときに、あまりに自分が当てはまったのですごくびっくりしたんです。今更びっくりしているということは、これからびっくりすることになる人たちも世の中に結構いるのでは!?と思ったので、描こうと。
https://note.com/feelyoung_ed/n/n9001d551be82
……確かに、発達障害の傾向にありながらも、未診断で問題なく生活できている人はいる。しかし病院に行くほどの不調はない、検査の必要性も感じられない、失職や離縁を繰り返す等の困難がない人は、正確には発達「障害」とは言えない。大人気漫画家であるこの著者のように「未診断&社会生活に問題がなく気が付かなかった」のなら、仮に診断基準を満たしていたとしても「発達障害」ではなく「非定型発達」というのが妥当で、まずその辺りの、「障害」という言葉に対する認識の粗さが、とても気になってしまった(曲がりなりにもテーマのひとつと言っているのだから、色々調べてはいるはずなのに)。
更に言うまでもないことだけれど、テレビやネットの「セルフ診断に当てはまる」からといって、その人が発達障害(の傾向にある、グレーゾーン)というわけではない。「片付けられない」「仕事でミスが多い」「人間関係がうまくいかない」「社会に馴染めない」「炎上発言を繰り返す」「こだわりが強い」等、発達特性の指標として提示されがちな特徴のいずれも、そしてもちろん生きづらさや苦しみも、程度の差こそあれ誰でも持ち得るものであって(そもそも発達障害自体グラデーションである)、それらの主観的要素だけでその人が発達障害と診断されるわけではない、フィクションで描かれる発達障害者のイメージとかけ離れた当事者だって多くいる(実は自称者よりも診断済み当事者のほうが、支援者からのアドバイスを元に日々沢山の工夫を重ねて定型発達者に馴染む努力をしているから傍目にわかりにくい、ということも起こる……)。セルフチェックやフィクションによってもたらされたイメージ、ステレオタイプに沿って自身を「診断」し口外してしまうことの危険性は、命に関わったり目に見える他の病気や障害で考えてみればすぐに分かることなのに何故か発達障害の場合はそう認識されないことが多く、この著者のように茫漠とした発言をする「自称発達障害」は後を立たない、その(検査や診断を仰がず自分で決めつけ公言してしまう)態度は、他でもない自分がもっている発達障害への根深い偏見、思い込みから生まれてきているということにも、気づいていないらしい。
……とはいえ、私は、この著者が未診断のまま適当なことを言っている様子を責めたいわけではない。冒頭にも書いたが、診断か未診断か、発達障害かグレーゾーンか、そういった線引きをしてどちらかを優遇したいわけでもない。寧ろそういった「線引きの問題」も含めて、発達障害をめぐる現状、この社会を当事者として生きることの意味(個性と言いくるめるにはあまりにもデメリットが多い)を侮っているからこそ公の場で軽々しく「多様性が〜」「テレビを見て〜」と言えてしまえるのだろうその言葉の扱いの雑さ、マイノリティに対する理解のなさと自身の発信力への無自覚さ、を前にして、途方に暮れている……というところだろうか。
継続的な就労が難しかったり気づかぬうちに精神疾患を併発して近親者とうまくいかなくなる発達障害者は少なくない。失職や離縁を繰り返し体力的にも金銭的にも追い込まれた状況で、救いを求めて長期通院や高額な部類の検査(……知能検査は割合高額なことが知られているが、必要な心理検査の種類や保険適用の有無は医療機関/当人の状態によって異なるので、先ずは直接相談に行くことをおすすめしたい。専門医の書いたものをあれこれ読んでみると、診断の基本はあくまで数カ月を費やす問診であって、検査ではないそうなので……私もまた、鬱病・摂食障害の長い治療過程というか診察を通して先ず診断されていて、後に補足として数種の検査も受けた、という経緯。全て保険適用)を選ばざるを得ない/選べない人たちの困難を、
受診してみたもののグレーゾーンだと言われ診断書をもらえず、身近な人からさえ理解を得られない人たちの逡巡を、
具体的な社会的差別の存在を前にクローズ就労や多大な労力を伴う「擬態」を続ける人たちの存在を、
個人の内面の問題にとどまらない、常に社会と往来する形で存在する発達障害者の苦難を、
この方は、どのように考えているのだろう、どのような理解のもとに、ああいったコメントをしたのだろう?
……漫画の続きを読めばもっと深い理解が描かれているのかもしれないけれど(嫌味ではなく本当に丁寧で素晴らしい作品と感じたので……)、日常的に自分の属性に対する差別で苦しみ、頻繁にフラッシュバックや癇癪を起こす私や私のような人たちが、この著者コメントに先に触れ、呆れたり、自分にしか/自分にもわからないトリガーを危惧して作品を読むのを中断してしまったら、その後この漫画がフィクションとしてどれだけ素晴らしく展開していったとしても、著者自ら『メインテーマのひとつ』であると語る「発達障害」の扱いについては成功していると言ってはいけないのではないか……コメントする著者と同じ『フィクションの外』を生きている「発達障害」の私は、そんな風に思ってしまうのだ。
「自称発達障害」の増加だけでなく「脳波検査」及び「ブレインクリニック」の問題、「HSP」という概念の流行*1に対して、診断済み当事者が何かを言うこと自体が「当事者(弱者)特権」の行使でありグレーの排除であると「認識」されかねない状況であること(そしてそれ故、何かを思いつつ黙している当事者が沢山いること)は十分承知しているし、しつこいようだが「真の当事者」を規定したい訳では決してない、けれども、特質(属性)によって生活がたちいかなくなるほど苦しんでいる人を無駄に傷つけることなくグラデーションに位置する人たちにも寄り添うためには、細かな現象/言動を慎重に見直していく必要があるはずだし、立場の違う各々が違和感を表明しあって様々な見解が積み重なることによってしか、事態が膠着状態(0か100か、善か悪か、正か誤か、診断か未診断か)に陥るのを防ぐことはできないだろうと思う、それに、
ここまで書いてきたようなことは私が他に経験してきたいくつかの病気(精神疾患はもとより、線維筋痛症やME/CFSといった神経系の疾患)に対しても当てはまることで、見た目にわからない病気や障害が無知や無理解を前提として「私もそれかも!」「みんなそうだよね〜」と簡単に言われてしまいがちなことに違和感を抱きながらも沈黙している当事者は、マジョリティが想像するよりずっとずっと、多いだろう、
セルフ診断の項目のようなものだけで、
フィクションのイメージだけで、
自身を当事者だと公言したり当事者を「そうは見えない」と勝手に規定したりする人が後を立たない病気や障害やある種のマイノリティの当事者たちが抱いてきた悔しさや悲しさやるせなさを(当事者同士の)共感の外に出して全体的な問題として考えていくためにはせめてまず、ヤマシタトモコさんのような発言力や拡散力のある人が公の場でするマイノリティへの言及の形を、もう少しだけでも丁寧なものに変えていってほしいと切に願うのだ、それは友人との会話とは違うのだから。
*1:自身の「発達障害」と向き合いきれなかった私には、「天然」「不思議ちゃん」「B型」そして「HSP」という言葉を利用して自分も周囲も欺いていた若い時代があり(今でも公表はしていませんが)、その自分の態度に隠されていた(というより他者からそれを向けられることを恐れていた)差別意識を思うと、HSPに飛びつく人たちについて、何かを言う気にはとてもなれない……と思っていたのですが、このブームの影響で状況(ASD差別)が年々酷くなるのを見ていく中で流石に我慢できないと感じる機会が多々あったため、少し書かせていただきたいと思います。恐らく私は、私(たち)が対峙しているもの(症状支障葛藤工夫……そして差別)の、最も苦しい部分には関わることなく同情されそうなところ・何か特別な才能に見えるところだけをかっさらって自分たちの物語に仕立て上げようとするマジョリティたち(監督含め自分もかつて「あみ子」だったと嬉しそうに話す定型発達者たちや、自分の診断名を差別攻撃から守る以外の理由でHSP概念を公私問わず用いる/発信する者たち)に、絶望しているのだと思います
……HSPについて、私は、「生きづらさ」で生活に支障がでているのなら精神に限らない他の疾患やそれこそ発達障害の可能性も考えて先ず病院に行ってほしいと本気で思っているし(特に感覚過敏に悩む若年層HSP支持者には隠れASDや化学物質過敏症が一定数いる気がします、感覚過敏が現れる身体疾患は他にも沢山ありますし私も同類の病で福祉の対象になっています)、ビジネス的に練られ仕掛けられたものであり科学的な根拠もない概念において、一部の当事者?が主張する「本物は自称/公言しない説」(というか論争)は、心底無意味で愚かしいものだと思っています。矛盾して聞こえるかもしれませんが、他者が判定することを想定されていない極めて曖昧でエビデンスもない概念において、誰がそれを自認しようが名乗ろうが、本来何も間違いではないはずです。そもそもの問題はそこではなく、HSPという概念自体の信憑性や差別性、研究対象の不安定さにあるので、誰がそれを名乗ろうが間違いではないと同時に誰が名乗っても遊びの枠を出ない、と考えるのが妥当だと思います。
第一、他者の「自称」を否定する(自分こそ「本物」と認識する)前に、その根拠となる研究論文なり学術的な文献なりにどの位の当事者が触れたと言えるのでしょうか……?もし本当に一次情報にあたっているのならば、そもそも信憑性も薄く差別的な背景をもつHSPという言葉(とかカサンドラとかMBTIとか)自体、安易に使えないはずではないでしょうか……?
「繊細」で「傷つきやす」く「深く思考」すると自認している割に、専門性が高く資本主義社会構造と密接な関係を持ち尚且つ様々な批判の渦中にある言葉群を「浅慮」に扱って平気な「鈍感さ」は一体何なのか、障害者差別との繋がり、そしてそれによって「傷つく」者たちに思い至らないのは何故なのか、私には不思議に思えてならないです。結局のところ、「他者の顔色を伺うばかりで自分の意見が無い」「臆病」「表面的な情報に流されやすく論理的熟考ができない」というように(発達)障害ベースだったらネガティブに言い換えられてしまうだろう(けれどその要素がその人を社会的に劣っていると規定するわけでは決してない)性格要素と向き合うことを避けるために「共感性が高く周囲に優しく豊かな感受性で物事をとらえる」などという聞こえのいい言葉で問題をコーティングしているだけなのだと思ってしまいます(情報を精査しないまま、或いはビジネス的にわざと、HSPは「研究基盤のしっかりしたものである」「マイノリティ属性である」などと嘘の発信している方がいることは勿論、それを「診断名」「障害」と語る当事者?まで多くいるという事実には、「深く思考する」という言葉の意味を考えさせられてしまいます)。
診療や発達検査では極めて真っ直ぐ自分の欠点と向き合わなければならない場面も多い(IQの高低を知らされることも……)のに、その、一番大切で一番苦しいところに背中を向けて似たもの同士で褒めあってなれあっている様子や、本来価値中立的であるはずの「感受性豊かなこと」をまるで「いいこと」かのように語る様子などは、SSTに日夜勤しみ、(ASDによる)過敏さで生活を大幅に制限している自分からすれば、過剰な自己愛にすら感じられてしまいます……
現代日本社会において、それぞれに個別の辛さがあること自体を否定する気は全く無い(本当にみんな苦しんでいると思います)のですが、だからこそ、HSPのような大多数の人に当てはまりすぎる大雑把な概念で自分を評するよりも、「気配り上手」とか「涙もろい」とか「静かな環境が好き」、或いは「打たれ弱い」とか「考えすぎ」とか「集団が苦手」でもいいですけれど、個別の言葉による自分の性格や性質の細かな語りから逃げないことの方が、辛さを乗りこなすためには有用でしょうし、誰かが無責任に発する「繊細さは才能だ」などという薄っぺらい代替の物語(端的に言えば、嘘)に安易に乗らないで、診察を受けて地道に「自分にとって人生の障害と感じられること」の受容に取り組むことの方がずっと大切ではないのかと、私は言いたいです……
そして今もし、これを読んでいるあなたの中にそのこと自体を否定したい気持ちが湧き上がったのであれば、HSPとASD、(心理学概念と言われるものの先行研究に乏しく業界でも確立したものとして認められていないどころか世界中でその差別性が問題とされているHSPと精神医学用語であり先行研究も豊富でエビデンスもしっかりしたASDという歴然とした違いはあるものの)ネット上にあげられるリストの表面的な特徴は類似している両者について(HSPの方にとっては残念なお知らせかもしれませんが、診断済みASDの私がHSPテストをやっても95%HSPという結果が出ます……)、前者は才能、後者は障害として扱う「差別的」な眼差しがそこに含まれてはいないか、一度よくよく点検してみてほしいと思います。
先に一次情報にあたっていれば……と書きましたが、HSP提唱者のアーロン博士は自身のサイト等で看過し難いASD差別発言(ASDを「人の心が無く冷たい」「障害」と蔑みつつHSPを「人間らしく愛に溢れた」「才能」と語ることで、相対的に後者を名乗りたくなる欲望を喚起させるマーケティング)をたびたび繰り広げており、幾度となく批判も受けています(言い訳しながら一応はそれを消すものの、同様の発言をまた繰り返す)。どうしてもHSPという概念に縋りたいなら最低でもそのこと位は把握していてほしいし(当事者にしてみれば差別への加担と言えますので……)、HSPという言葉の出発(論文に先んじて自己啓発本として発売されている)点やそれが発達障害差別的な文脈を戦略的に用いて拡散されていったという経緯、それ以前から存在する精神疾患/自閉症差別の歴史、カウンセリングとマルチ商法の相性の良さ等についても少しでいいから調べてみてほしい、その上で、もう一度HSPという言葉に向き合ってみていただきたいです。
また、「生きづらい」(……鍵かっこに入れていることから分かるように、私は私の人生の煩雑さを「生きづらさ」という言葉に象徴させてしまうことを不快に感じます、手垢にまみれたこの言葉を選択してしまえる数多のHSP〇〇という肩書の書き手あるいは当事者には違和感というか「繊細さ」から程遠いものしか感じません)ことの全てを自分の性格のせいにするのではなく、社会構造を疑って行動を変えていくことも、障害受容と同じかそれ以上に必要なことだと考えています(いじめ/パワハラ/過重労働/性被害/虐待などの経験を気に病むことなく跳ね返せるような精神の持ち主は、HSP云々に関係なく、限りなく少ないはずです)。
……まとめになりますが、HSPは、困難を抱える人たちが適切な診断や治療に結びつく道を阻害するだけでなく、既に精神疾患/発達障害を抱えている人やその診断名自体にスティグマを植え付けることにより拡大していった概念で、多分に差別的な背景をもつものです(研究の経緯やアーロン博士が行ってきたことについては海外のサイトの方が参考になるとは思いますが、日本語で最も分かりやすくまとまっていたものを下記に添付しておきます)。とりわけ、HSP概念の普及による、児童の発達障害に対する診断の遅れ(我が子はHSCでこれは才能だから、といって親が子の自閉傾向を差別的な文脈で否定する)は日本を含め世界中で懸念される問題となっています。本来なら当然、研究者や臨床現場の者がこの是正に取り組むべきではありますが、ブームに乗ってHSPという言葉や概念を安易に使っている一人ひとりにもまた責任があり、意識を新たにしていく必要があるのではないかと、私は考えています。
加えて、HSPという概念がなくたって私たちは自分自身を、他の誰とも違う特別で唯一無二の脆く繊細な存在として扱っていい、自分の苦しさをありのまま認めてあげていい、ただその解決策はそんなに簡単に(ブームに飛びつけば)手に入るものではないのだということもまた、しっかり自覚しておく必要があると思っています