nohara_megumiのブログ

全宇宙が一つであるなら迷宮を作る必要はあるまい(ボルヘス)

宇宙は一人で歩きたい(『君と宇宙を歩くために』)

※一部加筆(最終2024.4.22)付け足し過ぎて文意がとおりにくくなってしまい申し訳ないです

※私はASDそしてそれとは関係なく心底イヤな奴、ネット公開で話題の漫画『君と宇宙を歩くために(第1話)』を読んで「みんな」の感想を見て「優しい世界」に触れて"二十億光年の孤独"を感じている、そういう文章

※求められる「普通」の基準が定型発達者にとっても苦しいものとなりHSPという概念が流行する世の中で、こういう作品が受けるのは良くも悪くも当然だとは思います。しかしこれだけ多くの人から称賛されている作品を同様に支持できる自分もまた「多数派」なのだという認識が持てないのであれば、いじめや差別の構造を理解することなど不可能だろうとも私は思っています。当事者の方(私ではない)が下記に述べるような指摘を行ったとき、この漫画の作者が、そしてファンたちが、その方にどういう反応を示したのか、私は忘れたりしません。

障害者(私)が努力する(テザーを作る)のはそうしなければ生きていけない社会だからであってその労力を「個人の前向きな気持ち」で誤魔化されたくはないし「生きづらさ」は誰しも感じていることを承知の上で、「努力」や「傷つき」は社会的弱者に荷重がかかりやすくなる不均衡なものであるという前提も忘れてほしくはないです。また「生きづらさ」という雑な括りだけで自分の状態を理解したつもりになってしまうことは、マジョリティの中にも当然ある多様性や固有の苦しみを自ら放擲しているのと同じことだと私は考えており、そういう態度の集合、換言すれば「うねり」のようなものが、現代の(侮蔑だけでなく妬みを含んだ)障害者差別を加速させているように、個人的には感じています

※多くの方に読んでいただいて恐縮なのですが私は「正しい」ことを言っているわけではないので数ある意見の内の一つと認識して頂きたいです(これはあくまでネット公開当時の、第一話のみの、私個人の、感想です)。私はASD者の中では性格が厳しい部類だと思いますから、ほとんどの当事者が私と異なる見解を示すのも当然のことです

 

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漫画「君と宇宙を歩くために」、閲覧への事前注意喚起がされていないことを問題にしている方がいて、私もそれに賛同したこと(●1)と、それ以外のこと(●2tweet再掲)を、ここに残しておく(Twitterアカウントは削除)。

 

●1

「当事者の方を向いている」と当事者からも感動の声が上がっているらしいこの漫画。確かに主役に近い、グレーゾーン/軽度の発達障害/定型発達だけど生きづらさを感じている人の方を向いている漫画かもとは思うけれど、その主人公を成長させるために設定された主役の一人でもある「宇野くん」は、強度のASDに造形されている割にその特性の描き方が雑でいかにも物語的に誇張されている(……それでも海外ドラマのように名称を出しつつ作中で「個体差がある」ことをはっきり語ってくれるなら話は変わってくるのだが……特定の属性に対する差別を「みんなの生き難さ」としてふんわり矮小化してしまう作品が漫画でも映画でも日本には多すぎると思う)。無垢さや幼稚さばかりが強調された「ヒューマンドラマ系フィクションに典型的なASD」のキャラクターだが、ASDの「幼さ」とは、あのラストのような「泣いた赤子がもう笑った」というものよりは「いつまでもこだわる、いつまでも記憶が薄らがない」類のものだ。定型発達者の記憶/記録がアナログであるのに比べてASDはデジタル的に記憶を保持し続けがちで、一度他者に抱いた印象を覆すことが困難だったり、何十年たっても不快な状況を鮮明に思い出したりして苦しむことが多い。だからこそ、本当に当事者の方を向いている漫画であれば、陰口や虐めがある学校のシーンに「宇野くん」のような当事者がどう反応するか、注意喚起の必要性を事前に理解することはそれほど難しくなかったはずだ。そしてそれが分かっていたなら、後半の見せ場、「宇野くん」が感じる恐怖だってもっと丁寧に描かれていただろう(ペースを乱される恐怖と恐怖からくる癇癪や場面緘黙メルトダウンの苦しみは当事者にとって本当に重いものなのに、ここではそれが主人公を主軸とした起承転結のコマとして利用されているだけだ)。仮に分からなかったとしてもせめて、「注意喚起をしてほしい」とTwitter上で訴えていた(どちらかというと「宇野くん」側の)当事者に対して誠実に対応することくらいはできたのではないか(作者は指摘に対してTwitterやインタビューで「ヒューマンドラマだから仕方ない」と発達障害のマイノリティ性を等閑、更に宇野くんには明確なモデルがおり自分はその人が大好きだという謎の釈明までしていて、この手の不誠実さには既視感しかない……と私は思った)。フィクションの中で誰かに(主人公や周囲の者に)何かを気づかせる役割として設定されやすい(風変わりでキャラクターとして使いやすい)発達障害者と、私たち現実を生きる発達障害者との間にある差異(そして周囲の反応の差異)に注意を向けられない創作者が描き出した「優しい世界」に感動し得るのは、少なくとも、「その差異」に傷つき居ないことにされてきた者たちではないはずだ。

発達障害はグラデーションであり、当事者間にだって無理解、差別、排除は嫌になるほど溢れている(生理はあるけれど生理痛は無い人」ほど生理痛の激しい人に無理解で厳しくなりがちなのと同様に、「特性が強いながらも社会に馴染めている人」ほど、障害を感じで苦しむ人に厳しかったりする)。この漫画を巡る状況もまた、「宇野くん」という紛れもない当事者が、(非当事者は勿論)「宇野くん」以外の当事者(主人公に近い人たち)によって都合のいい特性だけ搾取された典型的な一例だと個人的には思っている。ポジティブに描かれていれば(捉えられていれば)差別ではない、なんてことは全くない。寧ろ発達障害や知的障害においては常に「無垢さ」「優しさ」といった一見ポジティブな偏見が、現実を生きる多様な当事者を透明化し続けている。この漫画が「フィクションの外」に存在しないことにしていない、或いは読み手として想定した「当事者」はあくまで「主人公(小林)」であり、フィクショナルに発達特性を強調/削除されステレオタイプ的に描写される「宇野くん」ではない、そのことが示唆する意味を考えない限り、発達障害への偏見は永遠になくならないだろう。

(注:読者の自分が誰に感情移入したか、ASDADHDかグレーゾーンかの違い、に留まった話ではなく、文字通り「声を上げられない」「立ち上がれない」、フィクションの意味をつかめない、「違和感」というものを持ち得ない者たちが常に、(今もこれからも)配慮の必要性の対象から無意識に弾き出されていること、「自分たちという属性に抱かれているイメージ」でしか表象されてこなかったこと、そういうフィクションの歴史の上に「偏見」が醸成されてきたことの問題性を言っています。この漫画を称揚する緩やかな連帯と絶賛の嵐が実は排除している「何か」について語られるようになって初めて、この種の構造の物語は意味を持ち得るのではないでしょうか)

 

●2tweet再掲

(何らかの)特性の自覚も支援も有り得ない環境にいる(或いはグレーゾーンの)者の苦悩と希望に焦点をあてた発想は秀逸だと思った。しかしその主人公を成長させるために、良くある発達障害ものと類似(マジカルマイノリティと言っていいのかもしれない)の、純粋で、真面目で、無垢で憎めなくて高校生にして特性との向き合い方をほぼ完璧に習得している「定型発達の人たちが受け入れやすい」ASD(と思しき)キャラクターを造形している点も、

一見周囲の人たちの理解が描かれているように見えて当事者個人の努力に重点が置かれ、彼らの勉強、歩み寄り(そしてもちろん物語の進行のための優しい他者)によって「いい話」に導かれている点も、

発達障害がイコール学習障害のように描かれている点も、

(姉と弟の関係など主題を覆しかねない諸々のマンガ的設定も、)

私は賛同(感動も)できなかった。

 

発達障害への差別って、「できないこと」を馬鹿にする罵倒する、だけじゃない。特にASDは、定型の人からすると和を乱す細かな指摘ばかりする存在(このツイートをする私だ)として面倒くさい/偉そう/人の気持ちを考えない等と認識されることが多く、総合的に「性格の悪い(きつい)ウザい奴」として、話の内容に関わらず聞く耳をもってもらえなかったり、排除されることが少なくない(もちろん全員ではない)。

「言葉の厳密さを追求してしまうこと」「肩書きや立ち位置を把握して(定型の人にとっての)適切な距離感で他者に接するのが困難なこと」は、性格というより、時に「家事や仕事をこなす労力が人一倍」である理由の中にも含まれる、発達特性の一種なのだが、「反差別」を掲げる人たちですら、ASDからの指摘を前述のような認識を露骨に見せつつ、まともに取り合わないことが多い。

特に、「思いやりにかけた」存在であるように定型発達者から言われ自身でも他者との違いからその認識を内面化せざるを得ないことも多いASDが、自分自身を一番「人間だと思えない」からこそ、公共の場に放たれた「人非人」「人としておかしい」「人権意識がない」等の言葉に強い疑念を抱いてする「指摘」を、そうすることが差別であるなんて思いもしない様子で等閑に付していたりする。

 

また私のように「女の子」として若い時分を過ごした者、勉強は人より出来るのに学校生活やバイトでは「無能」なタイプのASDが被る差別はこの漫画で描かれるような典型的に見えるものとは別種の複雑さを帯びており(舞台が男子校だったり、若く美しく理解の深いケア労働者としての姉と二人暮らし、という設定が「逃げ」ではないことは2話以降に期待したい……が、この手の主題の物語に「感動」しつつこの設定に引っかからない読者は流石にマンガ慣れしすぎではないかと思う)、「できないこと」は他の当事者と同じくらい多いにも関わらず、定型発達者からだけでなく非定型発達者からも「できないこと」を信じてもらえなかったり、避けられたり疎まれたりする(もちろん逆側の、学習障害などをもつ当事者を高IQの発達障害者が侮蔑するという差別もあり、こちらの問題も根深い)、「優等生」とか「理詰めで話す」という属性がある限り、また勉強が不得手でも「優しさや可愛げ」がない限り、

誰からも同情されない、

同情されない者は差別される者として認識されない、

それが発達特性によるものであっても、共感や共同体に連なれない者はマイノリティとしてカウントされない、

ここにも「声高に何かを訴えるのではなく自助努力に専念する(マジョリティからだけでなくマイノリティからも)受け入れてもらいやすいマイノリティ像」の呪いそして

「障害=無垢、善人」の呪いがあって、

故にこういった、フィクション的に典型的で表面的な発達障害のキャラクター設定、差別の描かれ方をする作品が増えるたび、発達障害の表記がないから「こそ」、世間に漂う漠然とした既存のイメージ(要するに偏見)がますます固定してしまい非定型発達内の多様性も差別の複雑さも(当然個別の性格も)矮小化されていき、よもや自分は発達障害差別などしないと思いこんでいる「発達障害の一面にのみ理解がある人」「幼くて無垢で優しい障害者にはあたたかい眼差しを捧ぐ人」「差別する人なんて人間じゃない、狂っている、頭が沸いている、と宣う反差別の人」たちから、透明化され差別され排除され続ける未来を、(難病患者でもある)私は危惧してしまう。加害者への「支援」にも「死刑廃止」にも関心が乏しい国に生きていることを、否が応でも実感する。畢竟、重視されているのは共感、同情、親近感、「人間らしさ」なのだろう……

 

……この漫画から思わず連想してしまった愛すべき「さかなクン」を目指すべく、私も普段から定型の人の気分を害さない対人努力はしているけれど、疲れ果てた時は思い切り叫びたくもなるのだ、「発達障害や知的障害を純粋さと繋げて優しい話に仕立てて分かった気になるなよ、あなた達が軽蔑しているイーロン・マスクだってASDなんだよ!」と。

 

 

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最後に、嫌われ者の独白。

 

「みんな」の思う優しさと私の言動が違っても、誰かを傷つけたいわけじゃないんだよ、

一人でいさせて欲しいけど、自分だけ良ければいいと思っているわけではないんだよ、

細かく複雑な言い回しに聞こえても、「あなた」を追い詰めたいわけじゃないんだよ、

「家族が亡くなっても泣かないなんて人間じゃない」と言われても、怒ったり、号泣することだってあるんだよ、

 

……でも確かに私はイヤな奴だ、人の気持ちがわからない、こうやって「みんな」の感動に水を差す、自己中心的で「人間の心がない」何かだ、一方的で、挙動不審で、「頭がおかしい」「会話ができない」「行き過ぎた反差別」の何かだ、「連帯感をぶち壊す」ひねくれた奴、「距離感のおかしい」面倒くさい奴、しつこくて言葉がキツくて態度がウザくてクソ真面目でとにかく「イヤな奴」。……30年以上いろんな「人間」と関わってきて、自分が、私が一番、それをよく知っているんだよ、

分かってるんだよ、

分かってるけど、

分かってるからこそ、

 

 

乗り越えたい

 

人間とか地球とか

 

"万有引力"*1から自由になって

 

共に生きるためにこそ、

 

 

 

 

宇宙は一人で歩きたい。

 

 

 

 

 

*1:"万有引力とは ひき合う孤独の力である" 谷川俊太郎/二十億光年の孤独