nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

愚痴(あみ子のブログに関して)

発信の過程で苦しかったことを、個人的な記録としてここに残す。

 

映画「こちらあみ子」が公開されてからの苦悶、それをなんとか言葉にまとめ、発信し、手応えを得た(或いは得られなかった)、その一連の流れの中で取り返しがつかないほど悪化した体調、精神状態。発達障害当事者だけでなく難病患者でもある私が、普段インターネットの使用すら医師に禁じられている私が、あのぐちゃぐちゃの、ただのパラグラフの集まりでしかない駄文を書くことに使ったエネルギーの大きさと薬の量は、確実にこの心身を削っていった。

 

(指摘に対応してくれなかった)批評家の皆さんにとっては、一本の映画を称賛しようが批判しようが痛くも痒くもないのだろうな。でも私は違う。多くの人に読んでもらうために極力やわらかく書いた記事だけれど、本当は……

 

……本当は、心の底からうんざりしていて、モヤモヤ悩み苦しんで、それをやったら(私の病気にとっては)命に関わることも承知の上であれを書いた。色々なものと引き換えに、もちろん一円だってもらっていない。

……けれどこの行為によって分かったのは、「自分は健常者ではない」という圧倒的な、打ちのめされるのに十分な事実だった。

重いスマートフォンを持つことも(私の握力は5を下回る)、文字を打つことも、文章を考えることも(脳の病気なのだ)、自分が他者に対して一方的に抱いた(いま思えば大袈裟な)怒りを認めることも、有難いレスポンスを読むのも(しかしこれほど支えになったこともない)、届いてほしい人に限ってスルーされるのも、全てが体にダメージを与え、食事をとる体力すら残らなかった。体重は35キロを切った。入院をすすめられた。

 

ほんの簡単なブログ記事をアップすること。たったそれだけのことが、しかも好きでやったことが、私には命がけの労働であった。今も昔も、そしてこれからも、自分は「何もできない」人間なのだと、もうこれまでの人生で散々分かっていたことを、再び思い知らされることになった。 ……なんて書くと、同じ性質や病気で色々なことに前向きに取り組んでいる人たちに失礼極まりないことも分かっているけれど分かっているからこそ表だって言ったことはないわけで、せっかく匿名のブログにしたのだから一度くらいありのままを記してみたい、誰にも言ったことのない気持ちを。……それは多分、他でもない自分が一番、向き合えなかった感情でもある。

 

 

言語化能力だけじゃない、共感能力、そして体力。声をあげられる人の声だけで回っているように思えて最近ではフェミニズムダイバーシティをとり扱う雑誌を読むのがしんどくなって、でも本当は分かっている、みんなそれぞれの事情、得手不得手、辛いことを抱えながら何かに取り組んでいるということ、誰もそんな大した人間ではないということ、分かってはいるけれど、

お馴染みの名前が並ぶ誌面に疎外感を感じ、当たり前だけれど私が欲しい言葉がどこにもないことに失望する。「いろいろな声」とか「リアル」とか「シスターフッド」とか。そのメンバーで、どんな認識でそんな風に名乗っているの、と鼻白んでみても連想的に学生時代の文化祭が脳裏をよぎり自分の「空気の読めなさ」「共感能力の低さ」を 再認識すれば間違っているのはやはり他の誰でもなく私であると、結局自分で自分をジャッジして終わる。その繰り返しで疲労がたまる。

 

「自分は凡百のフェミたちとは違って客観的な視点ももっていますよ、現実的で中立的ですよ」というスタンスの「フェミニスト」は当然論外で私とは相いれない性質だと感じるけれど、かといって「これは私たちの問題です」と高らかに言われた時その「たち」に自分が入っているように感じられない、正確には閉め出されているように感じるのは何故だろう、読んで励まされたり学びを得ている感覚も確かにあるのに「そこ」に書いている人たちには私の言葉が「伝わるわけない」という絶望も感じてしまうのは何故なのだろう。

 

 

……私には分からないのだ、フェミニストだったりクィア批評家を名乗る人たちが、個々人の活動を尊重しあっていると標榜しながらも相手の語りをすぐに自分の物語に回収するような「表現」を選んでしまえるのは何故なのか。「共鳴」のような感傷を想起させる、「物語的な表現」を選ぶ人が多いのは何故なのか。「差別主義者を断定するのではなく差別を批判する」と言いながら同じ文章内で具体的な個人名をずらっと並べてしまえるのは何故なのか(それは極私的な反差別主義者の断定、そして排除ではないのか)、差別の根は繋がっているといえどもそれぞれがそれぞれの動機でそれぞれのやり方で書いていることを、どうしてあたかも自分の類縁であるように解釈してしまえるのか……少なくとも私は「こちらあみ子」への疑念を端からはそう見えなくてもフェミニストの(広くマイノリティの権利もちろんニューロマイノリティもセクシュアルマイノリティも含めた権利を考えての)自認から書いた、一人きりで始めてとても心細かった、けれどだからこそ「ハンマーが響きあう」みたいな表現をもし使われたら、「私の何を知っているの?」と真顔で問い返すだ ろう。コツコツどころじゃない、岩を噛み砕きながら血を吐きながらでないと書けなかった、病を抱えた無名のフェミニストのやり方も動機も道具も、決してあなたと一緒ではないし、往々にして(今回のように)あなたがたは(私の)その無様な姿を無視して踏みつけていくではないか。或いはまた、コツコツではなくフワフワと、猫を撫でるように書いている人だっているかもしれないだろう、心細さはそれぞれだ、定型発達と非定型発達の違いは無論、大学教授とフリーライター、家族や友人の有無、差異は星の数ほどあるのにどうして無意識に無神経に自分の延長のように「繋がり」や「響きあい」を見いだしてしまえるのか、それを美しいもののように語ることを疑わないのは何故なのか、最近の多くのフェミニズム特集雑誌を読んで私が感じる違和感は恐らくこれに尽き、「アナタガタハ少シモ私ニ似テイナイ」という山尾悠子氏の言葉を思わず口走りたくなるものの山尾氏自ら「若書き」と後に回想するように、これは最早中年といえる齢の私にいつまでも消えない幼さのせいなのだろう。それでも、

 

同じ山を登っているように見える「他人」のことを自身の共感あるいはその媒体での連帯感で無意識にコーティングするような(敬意は敬意で独立して存在し得るのに)最近のフェミニズムの風潮が、共感能力に乏しい私にとっては限りなく「排除」に近いものに感じられることがあるのは確かで、「健常者至上主義」は流石に言いすぎだとは思うけれど(病や障害を抱えつつ活発に活動するフェミニストもいて尊敬する、でも何かしたくてもできない当事者たちはその何十倍もきっといる)、ため息混じりに「共感能力至上主義」と揶揄したい時がある。「正しい人」「明るい人」「いい人」。そう周りから判断されることが、マイノリティ当事者にとって(当事者だからこそ、そして肩書きがなければなおのこと)「自分の声を無視されないための命綱」になってしまうような仲間意識(……皮肉にもそれは差別する側とそれを批判する側どちらからも押し付けられる意識なのだけれど前者は仕方ないにしても後者の人たちもそれに無頓着であることに戸惑う)の外にいて私は何度でも「学生時代の文化祭」を思い出してしまう、修学旅行や合宿やゼミに参加できなかった自分がよみがえる。おかしいのは「正しくも明るくもいい人でもなく」肩書もない、人間嫌いな自分のほうだと、ずっと昔から、知っている、知ってはいるけれど。

 


もちろん「ASDは共感能力がない」という偏見は今すぐここで爆破しておきたいが、私自身は限りなく「共感能力が低い」ほうであり、どこまでが発達特性でどこからが性格なのか考えることにあまり意味を見いだせないけれど取り敢えず自分をこれ以上駄目だと思わないためにもフェミニズムをこれ以上重荷に思わないためにも言いたいのは、「共感能力が低い」人はいじめや差別に加担しやすいと宣う人が(フェミニストにはたくさん)いるけれど、他人に興味がないから(問題を)スルーしてしまう可能性と、人間関係に興味がないから(問題を)発見できる可能性と、実は半々ではないのか、ということだ。「こちらあみ子」の問題は明らかにマイノリティの当事者性に関わることなのに、フェミニズムに見識の深い人たちがそれを見過ごすどころか称賛までしていた事実を、私は忘れない。言い換えれば私のようなニューロマイノリティ、或いは(比喩的にも文字通りにも)声をあげにくい性質の者(いまの私はほとんど寝たきりで本一冊読むのも映画一本みるのも命懸けなのだ、そんな思いまでして観た映画にこれほど傷つけられるのなら、もう一生映画なんて観たくない……)が自称フェミニストとしてできることは、大文字のフェミニズムが取り零すものを拾い上げ、その違和感を、こうして小さな「かたち」にまとめていくことくらいなのかなと思う。誰かに届けるとかではなく。

 

 

それにしても。

 

 

 

 

 

あーーー疲れた!!!

 

映画「こちらあみ子」と発達障害●補足(内容篇)

※当事者の呼び名の表記を所々変更、健常主義的な言い回しを考え直す等、公開日より修正が加わっております(最終2023.5.15)

※これは私個人の感想で、発達障害者を代表する意見ではありません

※こちらの記事では内容に触れていますが、映画を否定し小説を擁護する意図はありません。三人称が押し付けざるを得ない「主人公の客観性」と当事者性との関係など、やはり原作にも考えるべき問題があると思っています。個人的には原作の一番の悪意は「新しいお母さん」であることかなと(元の題は『あたらしい娘』であったし発達障害には遺伝性もあると言われている)……しかしそれでも、映画化に際して「何故原作がこの設定になっているのか」よく考えていないような、演出や曲も含めて産みの母親を「あみ子を見守る大きな存在」と安易に意味付けしている点(原作が危うさの中でその質を保てているのは意味付けを拒否しているからだと思います)、また10年の月日の空きやある程度の批評が既に存在するという点(文芸の方がまだ慎重に議論されていた記憶があります)を考えても、やはり映画の方が問題は大きいかと考えています

 

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まず前提ですが、私が一番言いたかったのは、

 

発達障害の要素を映画に使うなら発達障害当事者や現在の日本の状況を考慮しなくてはいけない(あみ子のような「人と違ったまっすぐな感性」は定型発達の人に「子供時代の感覚」を思い出させるだけの都合のいいものでは決してなくて、現代日本社会の状況では当事者の将来にとって生死をわかつレベルの困りごとである)。それをしたくないのなら発達障害の要素は全部排除しなければいけない。どちらも中途半端にしているのは、当事者への配慮を欠き差別を推し進める搾取にも似た行為だ。更に、映画(フィクション)の理解が難しい障害、映画を見る体力がない病気、認識や言語化能力があまり高くない子供などをモチーフに使うとき、それらの人々がその特質ゆえに違和感を表に出せない可能性があることを忘れないでほしい」

ということです。決して監督の人間性や映画の全体を否定するものではありません。

 

その考えにいたった背景には、映画のあらすじ、予告編のキャッチコピー、監督のトークショーやインタビューなどでの発言があります。「僕があみ子」「あみ子と一体化している」「生きにくいかもしれないけど、それはぼくも同じ」「あみ子も大丈夫って言ってます」(https://hitocinema.mainichi.jp/article/9uem2vnxq5js ) と語る監督は、自身が描いている主人公の特質が、発達障害という「現代社会の状況では周囲と共生していくために著しい負担を強いられる、少数派の脳の性質」、つまりマイノリティの性質であるという認識がないようです。しかし原作刊行時からこれは発達障害なのではないかという声、当事者からの批判は沢山あがっており、実際に少し関連書籍で調べてみれば、原作に描かれたあみ子の性質が様々な発達障害にみられがちな要素の「寄せ集め」であることがわかります(興味のある人間以外おぼえられない、しかし好きになると極端なほどあからさまに好意を伝え続ける、中学生になってもじっとし続けられない、漢字や文章の認識が難しい、何をしたら人が悲しむのか喜ぶのか全く分からない等々)。ですから、仮に監督が「発達障害」という言葉をどこにも使っていなかったとしても、それを描いていたつもりがなくても、この原作を忠実に再現する限り見る人に発達障害を連想させてしまうのは当たり前のことといえるのに、その監督自身が、あみ子の性質を自分をはじめまるで誰にでも当てはまることのようにとらえているのが、まず一番の問題であるといえます(診断基準を持ち出してあれこれ言う人もいますが問題は観る人の捉え方であり発達障害を連想する人が多い描き方がされているのであれば現実の当事者を無視していいはずがなく、実際にあみ子が発達障害かどうかという点が問題なのではありません)。

 

そういった認識の甘さが内容に色濃く反映されているのが、ラストシーンの(原作からの)改変です。

小説はあみ子の一人称に限りなく近い三人称、映画は終始あみ子の目線で進んでいきますが、あみ子の心情が分かりにくいまま読者が投げ出されるように終わる小説とは異なり、映画ではあみ子の言葉に「意思」がこめられているような演出がなされています。彼女にしか見えないものを見送ったあとで「大丈夫じゃ」とあみ子が答えるラストシーン、ここに(小説と比べて)ある種の希望やかすかな救いを感じとった鑑賞者や批評家は多いようです。ラッパーであり、映画への見識の深さで有名なラジオパーソナリティもこのように語っています。(https://www.tbsradio.jp/articles/57485/ )

 

『彼女自身がちゃんと選択して、その未来というものを見据えたエンディングだ、というふうに、僕は解釈しました』

……しかしここで(あみ子にしか)見えないものを見送ると決めたのは、「大丈夫じゃ」と明るく答えるのは、本当に「あみ子」なのでしょうか?それは「彼女自身の選択」と言えるのでしょうか?誰にも本当のことを教えられず、周りから人々が消えていく、そのような状況で「大丈夫じゃ」と言いたいのは、一人の孤独な人間(しかもまだ自活の手段をもたない子供なのです)よりも、私たち無責任な大人(作り手と鑑賞者)ではないかと私は解釈します。

 

持病をもつ友達に久々にあったとき、「体調悪すぎてもう長くないかも」と言われるのと「大丈夫、元気だよ」と言われるのと、自分はどちらに安心するでしょうか、当然後者だと思います。そこには相手の問題以上に「自分が不安でいたくない(相手の状況が自分に辛い暗い悲しい気持ちをもたらすのが嫌だ)」という認識も含まれており、(私含む)多くの人は無意識に、「相手のありのままの状態」を認識するよりも自分の認識が心地よくなることを求めてしまいがちです(……それ故反対に「大丈夫でない」人間もつい「大丈夫」と言ってしまいがちなのは誰でも心当たりがあることと思いますが、病気や障害のある人は特に「症状がでている時の自分」と「他者に会えている時の自分」とに落差があるため大丈夫と言わなくても現実以上に大丈夫と思われてしまいがちという困難が伴います)。あのシーンでもしあみ子が、「助けて」「苦しい」「分からない」「辛い」と言い出したなら、あるいは沈黙したなら、多くの人は困惑し、あみ子やこの映画を受け入れがたく思うでしょう。悲惨な結末が正解だということではありません。それまであみ子そのもののはずだった(…と、あくまで作り手ふくむマジョリティが思い込んでいる)目線が、ここで突然(当事者である私にとっては最初から、とも言えますが)大人にとって都合のいいものに変わってしまっているのが問題なのです。

原作にはそういうことがありません。原作の作者はおそらく、自分の悪意や加害性、排他性に対して向き合う理性や自覚があり(でなければ同時収録のピクニックのようなものは書けないと個人的には思います)、安易にあみ子を自分の信じたい物語に回収することを避けたのだと思います(……というより創作をする者にありがちな「まとめたい脳」に巻き込まれる前にいい意味で「ただ書きおえてしまった」のだとも思います自覚と無自覚のバランスの話は創作の要ともなるので簡単には言えませんが「登場人物の造形」の次元ではなく「作品全体の表現」の次元に非定型発達的な感覚を適用するか否か/出来るか否かで、あみ子のような小説の質および読み手に認識させるジャンルは大きく変わってくると思います)。翻って映画の監督は、それが本質的にも「映画と監督」という立場を考えても全く別の人間(しかも本来であれば支援が必要なのかもしれない、少なくともそのマイノリティ性に対する理解や配慮は必要な発達障害児童)であるのにあみ子と自分を同一視しすぎているため、作品内における登場人物の自律性に無頓着となり(「あみ子の話」なのか「あみ子的な話」なのか両方なのか……原作との一番の違いはラストの改変ではなく、この認識あるいは無意識、の差ではないでしょうか)、突然「映画として形のいいエンディング」「大人にとって都合のいいエンディング」を用意してしまっています。他でもない自分が、あみ子を排除する側の人間、あみ子を放置しおいつめ加害する人間なのかもしれないという、自他の分離/悪意の自覚/作中人物との距離の認識が、極端に欠如しているのです。そしてここに、「発達障害の要素」が絡んでいることを思い出せば、このラストシーンは、監督や、先にあげたラジオパーソナリティを筆頭とする多くの定型発達の大人たちにとっては希望(安心できる)かもしれなくても、当事者にとっては絶望(全部自分の責任ですよ、全部自分で頑張ってねという社会からのメッセージ)でしかないということがわかると思います。その瞬間に、(作中のあみ子が家族に棄てられたように)現実を生きるあみ子たちは社会から棄てられるのです、棄てたという自覚をもたない人たちの手によって。

 

本来ならあみ子をただ放置してああいう状況においこんだ大人たちにあみ子を「大丈夫」にしてあげる責任が、「大丈夫でいられる社会を作り直す」責任があるくらいなのに、何故あみ子自身に「大丈夫」と言わせてそれを「未来を見据えたエンディング」と解釈できるのか、私には分かりません。それはあまりにご都合主義ではないでしょうか。何があっても何もわからず自分を貫いてきたあみ子を眩しいもののように描きながら、そのまっすぐさゆえに周りの人たちから見放されたときにも、それを「このままのあみ子でもきっと生きていける」、「大丈夫」と「言わせる」だけで特に何をするわけでもない……あみ子の性質が現実社会に存在する困難と関わっている事実を甘く見ているから、原作におけるあみ子の性質について映画化に際してよく検討し直さないまま「自分と同じ」という第一印象をただただ優先してしまっているからこういう結末を選べるのだと思います。そしてそれが現実に存在する発達障害の当事者たちにとってどんな意味をもたらすのかについては、もちろん全く考えが及んでいないことは明らかです。そういった視点の全て(監督のみならず好評価をしている批評家も)が定型発達者の傲慢さの現れとは言えないでしょうか。そしてこれはあらゆるマイノリティを描いた作品の随所に見られる現象でもあると思います。

冒頭に示したように監督は「あみ子も大丈夫って言ってますし」と述べていますが、大丈夫だと言わせているのは自分だという自覚をもってほしいし、その自覚のなさは、母親と娘の描きかた(捉え方)の雑さ(或いは父親の/への、無関心さ)と無関係ではないように思います(話が膨らみすぎるため、発達障害ジェンダーロールや性自認の関係についてはここでは省きます)。

 

……少々きつい言い方になってしまいましたが、当事者でももちろんこの映画を楽しめる方は多いと思いますし、そのことを批判するつもりはありません。監督の認識も、今のところあまりにも幼いとは思うけれど、映像の美しさなど今後に期待できることは大きいです(原作の作者のその後についても個人的にはいい変化が見られるような気がします全ては読めていませんが)。ただ、映画雑誌で高評価をしている批評家たちや監督とのトークショーにも参加するほど絶賛をしている著名人たちの言説には、厳しく否を突きつけさせていただきたい気持ちがあります。残念ながら「病気」について分かっていても「患者」について分かろうとする医師は少ないですから、某精神科医の批評は私にとって何の意味ももちませんし、某クィア批評家はマイノリティ/クィアの指すところをジェンダー/セクシュアル/ロマンティックに限定して捉えているからこの映画の当事者性に気がつかなかったのではないかと思うのですが、セクシュアルマイノリティとニューロマイノリティの関係は本来密接である(一方が原因という意味ではなく、重なりうるという意味)と私は考えています。また全ての差別は表層の形は様々でもレトリックが似通っていたりある種の共通する構造を見いだすことが可能で、そこに対する意識を持たずに「何か」は見るけれど「別の何か」は見ない、という姿勢でいるのは、畢竟それもまた差別であるように思うのです。

作り手や批評家の方々(映画に限りません)へ、それが「自分たちにとって大切な何か」なのは分かります、でもそれを表現したり評価するために、当事者性を無いことにするのはやめて下さい。それは当事者にとっても、大切で切実な問題なのです。

映画「こちらあみ子」と発達障害(概要篇)

※当初カットした私情を含むパラグラフを本文一番下に追記、当事者の呼び名の表記を所々変更、健常主義的な言い回しを考え直す等、公開日より修正が加わっております(最終2023.5.15)

※これは私個人の感想で、発達障害者を代表する意見ではありません。発達障害には種類も合併もありますし、無論各々に性格も異なります

※記事タイトルや本文中では、あみ子の性質と監督および多数の受け手との違いをはっきりさせるため「発達障害」という言葉を使用しています。しかし本来、AS(D)やADH(D)と診断されたとしても、それ自体が「障害」といえるわけではありません。それらはあくまで「非定型発達」という「脳の状態」であり、問題はその性質が、社会の多数派である定型発達の人たちによって作られているルールに適合しづらく、往々にして齟齬をきたして日常生活が立ち行かなくなってしまう点にあります。ですから勿論、適した環境にいることで何の問題もなく過ごせている当事者もいます。一方で困難を感じ自分の状況を「障害」と認識する人もいます。二次障害として「病気」になる人も多いです。「神経発達症」「ニューロマイノリティ」という言い方も広まりつつあります。もし周りに発達特性を持つ方がいらっしゃったら(いらっしゃらなくても)、どうか本人の声を聞くことなく「障害」という名指しを使用しないようにお願い申し上げます。また当事者で困惑なさった方がいらっしゃいましたら、深くお詫びいたします

 

 

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映画「こちらあみ子」について思うこと。

 

一部の発達障害に典型的なエピソードを多用しているにも関わらず、予告編のコピーや監督のインタビューに「子供なら誰でも見ていた世界」「誰もがみんなあみ子」といった言葉が並ぶことに強い違和感を覚える。


大前提だが、特別視やカテゴライズをしないことと理解および支援を「共感」の力でスルーしていくこととは別物だ。自分と相手は地続きである(同じ人間である)という認識と、自分と相手は別の問題を抱えているという認識を共有させられないのであれば、善意に満ちた共感で相手を傷つけることになりかねない。お互い相手の性質や属性に対する知識や理解が進めば共感の形もより豊かなものに変わっていくし勿論、離れることの意味も変わってくる(理解があるからといって相手がその態度を受け入れるかどうかはまた別の話。だからこそ法整備も重要な課題になってくると思う)。発達障害に限らず、これはあらゆるマイノリティに通ずる話だと思う……どころか、本来なら全ての人間関係に共通する注意事項であるように思う。その認識が、この映画の作り手には著しく欠けている、だから「発達障害」を「誰にでもあること」=「大した意味はないこと」として軽々しく自分の表現に取り込めるのだろう。

 

映画の内容についてここで詳しく触れるつもりはない。子役が、しかも初めて映画に出演したという子供が主役の作品について批評するには、それなりの配慮と批評の技術が必要だと思うからだ。私にはその力が足りないと自覚している(内容については別の記事●補足で少し触れることにしました)。

 

しかし、この20年の間にあまり変わらない面(誤解、偏見、無理解)と大きく変わった面(診断数、支援形態、情報)とを併せ持つ発達障害を、「なんとなく昔」「なんとなく田舎」という観せ方で世界観を保っている映画の中に「なんとなく発達障害っぽい」という形で使用していいものなのか、その製作体制にこそ、他でもないあみ子を排除するものが含まれている気がして、ここにこうして言葉を残しておきたかった。

 

社会的に正しいことを描く必要があると思っているわけではないけれど、現実は創作に奉仕するために存在しているわけではないし、発達障害は(監督がインタビューで述べていたような)「周囲に馴染めない子供」を代表するような存在でもない。発達障害当事者や家族が抱える困難が過去のものではなく都市伝説でもなく現在進行形のものである限り、それを取り扱う際の手つきは、プロモーションも含めてもっと繊細であってほしかった。
仮にそれをしたくない(映画の中に漂う郷愁のような夢のような空気観を保つために病気や障害といったあみ子の目線以外の社会性を極力はぎたい)のであれば、発達障害自体を全く匂わせなくすればいいだけのことで、

 

発達障害を感じさせる台詞をひとつも出さずに、
発達障害に典型的な性質やエピソードを都合よく継ぎはぎせずに、
あらすじ通り「少し風変わりな女の子」をオリジナルでうみだし、
コピーの通り「誰もが子供の頃に見ていた世界」をあみ子以外の視線(誰も、は圧倒的多数を指す言葉であって、作中終始孤立しているあみ子ではないはず)に同一化することで観せてくれればよかったのに、

 

と思う。

 

原作に忠実であるのは分かるが、(恐らく書物より)より沢山の人の目に触れる映画という表現形態を選択したからには必要となる、表現内容の調整が足りていなかったと思わざるをえない。原作が出たのは2011年のことであるし、当時「こういった表現がそのまま発達障害当事者を周縁化してしまうのではないか」と議論されていたのだ、それが11年たっても何の考慮もなくまさに「そのまま」引き継がれた形となっていることに疑問を感じてしまう。著者が小説内の人物に対してどのような立場にいるか、その自覚があるかどうかという点(同時収録のピクニックと併せて読むと分かりやすいと思う)を考えると私は原作小説にはそこまで否定的ではないのだが(当事者として肯定も難しいが)、映画版の作り手にはその自覚が極めて希薄であるように感じられる。

 

映画に対し抱く感想、観方は人それぞれで、制作側の意図を離れた読み解きも様々に成立しうる、明らかな誤読でない限り、その解釈は自由だ。だからこの映画に集まる賛辞(映画批評家や映画マニアのような玄人受けが特によい気がする)に異議を唱えるつもりはないけれど、

 

ないけれど、

 

賞賛している人たちに、どうかこれだけは知っていてほしいと切に願う。映画には様々なモチーフやテーマが描かれるけれど、その性質ゆえに当事者が違和感を表に出すことが極めて難しいという分野が、まだまだ沢山あるということ。あみ子自身にはこの映画が分からないかもしれないということは想像に難くなく、それをあみ子でもない子供でもない大人たちが「徹底した主人公の目線」だと賞賛している様子は、虫か鳥の生態を撮った映像を人間が賛美している様子と変わらないものに思える。賞賛しているあなた方はまさか、発達障害当事者の、しかも子供が、この映画に異議を唱える可能性なんて微塵も考えていなかっただろう。性差別や人種差別を問題ととらえることはできても、(発達障害の二次障害でもある)精神疾患だったり、知的障害、児童の意思や人権について想像できている大人は少ないように思う(……言わずもがなだが、声をあげている人が多いように見える分野の中でも言語化を不得手とする当事者は必ずいるし、文字通り声や言葉を発したり体を動かしたりすることが困難だったりするけれど違和感は持っている、という当事者だって存在する。上がってきた声を聞くのと同じだけの労力を、そのことを想像する、せめて忘れないようにすることに費やさなければ、やっぱり何も見ていない聞いていない考えていないのと同じことになりかねない)。

 

一般のレビューを見ても、「かつて自分はあみ子だった」という一体化、「あみ子に幸せになってほしい」「あみ子はきっと大丈夫」という共感、「きもい」「うざい」「無理」という拒否、の3つのパターンが多く(勿論そうでない人もいる)、これらはいずれも発達障害に対する知識不足から生じるものと思われる(非定型発達は治らないので寧ろ大人になってから苦労する人が多いし、「周りと同じ」に見えてしまうからこそ同じレベルのことを要求され困難を抱えてしまう「性質」或いは障害や病気は発達障害に限らない。私は発達障害の二次疾患としての難病を抱える身でもあるが、目に見えない障害や病気を抱えている人に健常者が「私も同じだよ」と言うことほど残酷なこともないと常々感じている……)が、鑑賞者がそういう感想を抱くのが悪いわけではなく、一旦こういった素朴な感情ベース(自分と一緒or好きor嫌い)に嵌まってしまうとその先に理解(知識を得ようとすること)に繋がる回路が開きにくくなることが問題なのであり、一般の間に発達障害への理解や正しい知識が広がっているとは言い難い(イジメや差別に直結することも多い)現在の日本の状況下で、そういった「共感が主体の感想」を多く産み出しているのだとすれば、この映画は発達障害への無理解を助長し偏見を植え付けていると言えるのでは、とすら思う。

 

映画は映画関係者だけが観るものではない。批評家でもマニアでもない、映画に対する知識も発達障害に対する知識も全くなくただ気分転換に観たい人だって観る。テレビ放映されれば目に入ってしまうということもある。そういう表現形態を選んだのなら監督は、「発達障害を意識したくなかった」という自分の思いと、現在の日本で発達障害当事者がおかれている状況(向けられている視線や偏見)とのすりあわせを、もっともっと慎重に行ってほしかった。この原作を使わなくても、あるいはもっと脚色しても、あるいは全く別の、発達障害の要素を一切いれないものでも、監督の撮りたいものは撮れたのではないか、と思ってしまう(技術やセンスは素晴らしかったので尚更)。

 

……極個人的な願いだが、「創作は現実を搾取するものではなく、現実を照らすものであってほしい」。

それは必ずしも「希望」という意味ではなく、あらゆる可能性に繋がりうる、受け手が見ていたはずの現実の輪郭を思わぬ形で再度発見させることを指しているが、マイノリティにとってそれがエンパワーメントに繋がる希望であるに越したことはないし、創作という行為も現実世界の中で行われるものである以上、今の社会の状況と当事者各人が感じているかもしれない困難への想像を前提とせずにマイノリティをモチーフとした創作をすることは、極端に配慮の欠けたただの「創作のための創作」でしかないだろう。映画人だけに評価される映画、演劇人にだけ評価される演劇……それ自体を私は否定しないが、もし「それ」をやりたいのならマイノリティをモチーフとして使うべきではない。法整備や理解や配慮が行き渡った上での「みんな同じだよ」と、区別差別偏見無理解に満ちた状況下での「みんな同じだよ」とでは、当事者にとって全く、全く意味が違う、順番が逆なのだ。そのことに気がつかないのは、創作や批評をする人間としては決定的な過失ではないのかと、私は考えている。

 

 

最後に一言。

映画自体を批判したいわけではない(決して好意はもっていない)けれど、当事者であり当事者の家族でもある身(きょうだいは私より強度のASDで家庭環境は言わずもがな)として、自分と同じような言説が全くないことが気がかりだったので、ここにこの文章を残すことにします。読んでくださった方がもしいたら、あくまで様々な感想の中のほんの一つとして受け取ってください。

 


けれど、

 


このためだけに、このことを書くためだけに、このページを開設しました。そのくらい、強く訴えたい気持ちがあったのもまた確かです。

 

 

 

 

※追記
あみ子に集まるレビューを読んでいく中で、「きっと私も気持ち悪がられる」と思ったため本文中では触れられなかったが、作中、あみ子がボコボコにされたり家族の心を壊してしまう理由が、実は私には分からない。正確には「頭ではなんとなく分かる」、しかし「感覚として分からない」(注:ASDは共感能力がないと勘違いしている人が多いがそれ自体はちゃんとある)。発達特性について色々学んできた今ではあみ子の言動が他者を傷つけるものだということはある程度理解できるようになったのだが、基本的には私は子供時代のあみ子と大差ない感覚のまま大人の自分を生きている。だからいつボコボコにされても、いつ家族の心を壊しても、いつ見棄てられてもおかしくないと思っていて、そうならないために、医療やカウンセリングや書物での学び、家族との綿密なコミュニケーションに一定の時間を割いているし、基本的には理解が深い連れ合い以外との私的な接触はほぼない(出来ないというか望まない、感覚過敏も酷く外出もままならないので)。
もしかすると監督は、発達障害児童のことを、ただの「よくいるクセが強い子」で「大人になればみんな自然に、我慢や諦めることや相手の気持ちを慮ることを学習して周りと足並み揃えられるようになる」と思っているのではないか。いつか「自然に」あみ子ではなくなる、だから「自分も(誰でも)かつてはあみ子だった」。……しかし実際は真逆で、大人になればなるほど皆との違いが際立っていき、特に仕事にかかわる場面で周りとの齟齬が限界に達して深刻な二次疾患を発症したり、失職や転職を繰り返さざるをえなくなって経済的に困窮している当事者もとても多い、あみ子のような「人と違ったまっすぐな感性」は定型発達の人に「子供時代の感覚」を思い出させるだけの都合のいいものでは決してなくて、当事者の将来にとって生死をわかつレベルの困りごと、まさに「死活問題」なのだ。

日本では特に「暗黙のルール」が分からないと「社会性のない大人」のレッテルを貼られがちだが、その「暗黙のルール」を内面化する(していく)ことが、定型発達の人と比べると格段に困難なのが非定型発達である。先に述べたように「自然に」皆に馴染めるようになることは、ほとんど無い。傍目にはそうなっている(自然な変化)ように見えても、その後ろには多数の学習や工夫や労苦、支援や医療が隠れている(専門医がよくいう言葉に「存在を消せ」がある。非定型の人がありのままに振る舞っているとどうしても違いが目立っていじめや差別の対象となりやすいので、存在を消すことで馴染んでいると「錯覚」させろと言うわけだ、更に「発達障害の名乗り」そのものが何故か定型発達者の怒りを刺激することが多々あるため、身を守るために公表していない当事者も多い)。マジョリティなら周りに馴染む努力を全くしなくても大丈夫という意味ではなくて、程度や種類の問題……正に程度や種類の問題なので、「誰だってみんな頑張ってるんだよ」「みんな努力してるのに少数派ぶるな」と言われてしまいやすい。善意の「みんな一緒だよ」は、横滑りで「弱者特権への攻撃」に転化する、無理解という意味では同じ線上のものともいえる。
このことはセクシュアルマイノリティはじめ各種マイノリティの方々にも通じるのかもしれない(現行の社会に馴染むために強いられる努力の不均衡さはそれぞれの当事者以外に分かりえない重いものだから、私が安易に一緒だと言ってはいけないが)、そもそもこの映画における発達障害の描かれ方は、レズビアンカップルを「思春期の一時的な気持ちの揺れ」として「美化された思い出」のように語ってしまう、当事者にとってのリアルとリアリティよりも、当事者以外の人間のリアリティ(リアルとは本来かけはなれたもの……誰でも多感な時期にはそういうことがあるのは分かるよ、とか、本当に愛する人に会ってないからだよ……というような思い込み、揺らぎはあってもいずれ誰しも異性愛でアローでシスにおさまるものだという根深い抑圧)を優先したある種の作品群に、酷似していると思う。こういうテンプレ的な描き方に名前をつけたいくらいなのだが、作者に悪意があるのか、本当に何も分かっていないのか、それすら分からなくて当惑するので、往々にしてモヤモヤとした気持ちを抱いたまま沈黙している人は多いのではないかと思う……