映画「こちらあみ子」と発達障害(概要篇)

※当初カットした私情を含むパラグラフを本文一番下に追記、当事者の呼び名の表記を所々変更、健常主義的な言い回しを考え直す等、公開日より修正が加わっております(2023.5.15最終)

※これは私個人の感想で、発達障害者を代表する意見ではありません。発達障害の種類は多岐にわたっていますし、各々に性格も異なります

※記事タイトルや本文中では、あみ子の性質と監督および多数の受け手との違いをはっきりさせるため「発達障害」という言葉を使用しています。しかし本来、AS(D)やADH(D)と診断されたとしても、それ自体が「障害」といえるわけではありません。それらはあくまで「非定型発達」という「脳の状態」であり、問題はその性質が、社会の多数派である定型発達の人たちによって作られているルールに適合しづらく、往々にして齟齬をきたして日常生活が立ち行かなくなってしまう点にあります。ですから勿論、適した環境にいることで何の問題もなく過ごせている当事者もいます。一方で困難を感じ自分の状況を「障害」と認識する人もいます。二次障害として「病気」になる人も多いです。「神経発達症」「ニューロマイノリティ」という言い方も広まりつつあります。もし周りに発達特性を持つ方がいらっしゃったら(いらっしゃらなくても)、どうか本人の声を聞くことなく「障害」という名指しを使用しないようにお願い申し上げます。また当事者で困惑なさった方がいらっしゃいましたら、深くお詫びいたします

 

 

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映画「こちらあみ子」について思うこと。

 

一部の発達障害に典型的なエピソードを多用しているにも関わらず、予告編のコピーや監督のインタビューに「子供なら誰でも見ていた世界」「誰もがみんなあみ子」といった言葉が並ぶことに強い違和感を覚える。


大前提だが、特別視やカテゴライズをしないことと理解および支援を「共感」の力でスルーしていくこととは別物だ。自分と相手は地続きである(同じ人間である)という認識と、自分と相手は別の問題を抱えているという認識を共有させられないのであれば、善意に満ちた共感で相手を傷つけることになりかねない。お互い相手の性質や属性に対する知識や理解が進めば共感の形もより豊かなものに変わっていくし勿論、離れることの意味も変わってくる(理解があるからといって相手がその態度を受け入れるかどうかはまた別の話。だからこそ法整備も重要な課題になってくると思う)。発達障害に限らず、これはあらゆるマイノリティに通ずる話だと思う……どころか、本来なら全ての人間関係に共通する注意事項であるように思う。その認識が、この映画の作り手には著しく欠けている、だから「発達障害」を「誰にでもあること」=「大した意味はないこと」として軽々しく自分の表現に取り込めるのだろう。

 

映画の内容についてここで詳しく触れるつもりはない。子役が、しかも初めて映画に出演したという子供が主役の作品について批評するには、それなりの配慮と批評の技術が必要だと思うからだ。私にはその力が足りないと自覚している(内容については別の記事●補足で少し触れることにしました)。

 

しかし、この20年の間にあまり変わらない面(誤解、偏見、無理解)と大きく変わった面(診断数、支援形態、情報)とを併せ持つ発達障害を、「なんとなく昔」「なんとなく田舎」という観せ方で世界観を保っている映画の中に「なんとなく発達障害っぽい」という形で使用していいものなのか、その製作体制にこそ、他でもないあみ子を排除するものが含まれている気がして、ここにこうして言葉を残しておきたかった。

 

社会的に正しいことを描く必要があると思っているわけではないけれど、現実は創作に奉仕するために存在しているわけではないし、発達障害は(監督がインタビューで述べていたような)「周囲に馴染めない子供」を代表するような存在でもない。発達障害当事者や家族が抱える困難が過去のものではなく都市伝説でもなく現在進行形のものである限り、それを取り扱う際の手つきは、プロモーションも含めてもっと繊細であってほしかった。
仮にそれをしたくない(映画の中に漂う郷愁のような夢のような空気観を保つために病気や障害といったあみ子の目線以外の社会性を極力はぎたい)のであれば、発達障害自体を全く匂わせなくすればいいだけのことで、

 

発達障害を感じさせる台詞をひとつも出さずに、
発達障害に典型的な性質やエピソードを都合よく継ぎはぎせずに、
あらすじ通り「少し風変わりな女の子」をオリジナルでうみだし、
コピーの通り「誰もが子供の頃に見ていた世界」をあみ子以外の視線(誰も、は圧倒的多数を指す言葉であって、作中終始孤立しているあみ子ではないはず)に同一化することで観せてくれればよかったのに、

 

と思う。

 

原作に忠実であるのは分かるが、(恐らく書物より)より沢山の人の目に触れる映画という表現形態を選択したからには必要となる、表現内容の調整が足りていなかったと思わざるをえない。原作が出たのは2011年のことであるし、当時「こういった表現がそのまま発達障害当事者を周縁化してしまうのではないか」と議論されていたのだ、それが11年たっても何の考慮もなくまさに「そのまま」引き継がれた形となっていることに疑問を感じてしまう。著者が小説内の人物に対してどのような立場にいるか、その自覚があるかどうかという点(同時収録のピクニックと併せて読むと分かりやすいと思う)を考えると私は原作小説にはそこまで否定的ではないのだが(当事者として肯定も難しいが)、映画版の作り手にはその自覚が極めて希薄であるように感じられる。

 

映画に対し抱く感想、観方は人それぞれで、制作側の意図を離れた読み解きも様々に成立しうる、明らかな誤読でない限り、その解釈は自由だ。だからこの映画に集まる賛辞(映画批評家や映画マニアのような玄人受けが特によい気がする)に異議を唱えるつもりはないけれど、

 

ないけれど、

 

賞賛している人たちに、どうかこれだけは知っていてほしいと切に願う。映画には様々なモチーフやテーマが描かれるけれど、その性質ゆえに当事者が違和感を表に出すことが極めて難しいという分野が、まだまだ沢山あるということ。あみ子自身にはこの映画が分からないかもしれないということは想像に難くなく、それをあみ子でもない子供でもない大人たちが「徹底した主人公の目線」だと賞賛している様子は、虫か鳥の生態を撮った映像を人間が賛美している様子と変わらないものに思える。賞賛しているあなた方はまさか、発達障害当事者の、しかも子供が、この映画に異議を唱える可能性なんて微塵も考えていなかっただろう。性差別や人種差別を問題ととらえることはできても、(発達障害の二次障害でもある)精神疾患だったり、知的障害、児童の意思や人権について想像できている大人は少ないように思う(……言わずもがなだが、声をあげている人が多いように見える分野の中でも言語化を不得手とする当事者は必ずいるし、文字通り声や言葉を発したり体を動かしたりすることが困難だったりするけれど違和感は持っている、という当事者だって存在する。上がってきた声を聞くのと同じだけの労力を、そのことを想像する、せめて忘れないようにすることに費やさなければ、やっぱり何も見ていない聞いていない考えていないのと同じことになりかねない)。

 

一般のレビューを見ても、「かつて自分はあみ子だった」という一体化、「あみ子に幸せになってほしい」「あみ子はきっと大丈夫」という共感、「きもい」「うざい」「無理」という拒否、の3つのパターンが多く(勿論そうでない人もいる)、これらはいずれも発達障害に対する知識不足から生じるものと思われる(非定型発達は治らないので寧ろ大人になってから苦労する人が多いし、「周りと同じ」に見えてしまうからこそ同じレベルのことを要求され困難を抱えてしまう「性質」或いは障害や病気は発達障害に限らない。私は発達障害の二次疾患としての難病を抱える身でもあるが、目に見えない障害や病気を抱えている人に健常者が「私も同じだよ」と言うことほど残酷なこともないと常々感じている……)が、鑑賞者がそういう感想を抱くのが悪いわけではなく、一旦こういった素朴な感情ベース(自分と一緒or好きor嫌い)に嵌まってしまうとその先に理解(知識を得ようとすること)に繋がる回路が開きにくくなることが問題なのであり、一般の間に発達障害への理解や正しい知識が広がっているとは言い難い(イジメや差別に直結することも多い)現在の日本の状況下で、そういった「共感が主体の感想」を多く産み出しているのだとすれば、この映画は発達障害への無理解を助長し偏見を植え付けていると言えるのでは、とすら思う。

 

映画は映画関係者だけが観るものではない。批評家でもマニアでもない、映画に対する知識も発達障害に対する知識も全くなくただ気分転換に観たい人だって観る。テレビ放映されれば目に入ってしまうということもある。そういう表現形態を選んだのなら監督は、「発達障害を意識したくなかった」という自分の思いと、現在の日本で発達障害当事者がおかれている状況(向けられている視線や偏見)とのすりあわせを、もっともっと慎重に行ってほしかった。この原作を使わなくても、あるいはもっと脚色しても、あるいは全く別の、発達障害の要素を一切いれないものでも、監督の撮りたいものは撮れたのではないか、と思ってしまう(技術やセンスは素晴らしかったので尚更)。

 

……極個人的な願いだが、「創作は現実を搾取するものではなく、現実を照らすものであってほしい」。

それは必ずしも「希望」という意味ではなく、あらゆる可能性に繋がりうる、受け手が見ていたはずの現実の輪郭を思わぬ形で再度発見させることを指しているが、マイノリティにとってそれがエンパワーメントに繋がる希望であるに越したことはないし、創作という行為も現実世界の中で行われるものである以上、今の社会の状況と当事者各人が感じているかもしれない困難への想像を前提とせずにマイノリティをモチーフとした創作をすることは、極端に配慮の欠けたただの「創作のための創作」でしかないだろう。映画人だけに評価される映画、演劇人にだけ評価される演劇……それ自体を私は否定しないが、もし「それ」をやりたいのならマイノリティをモチーフとして使うべきではない。法整備や理解や配慮が行き渡った上での「みんな同じだよ」と、区別差別偏見無理解に満ちた状況下での「みんな同じだよ」とでは、当事者にとって全く、全く意味が違う、順番が逆なのだ。そのことに気がつかないのは、創作や批評をする人間としては決定的な過失ではないのかと、私は考えている。

 

 

最後に一言。

映画自体を批判したいわけではない(決して好意はもっていない)けれど、当事者であり当事者の家族でもある身として、自分と同じような言説が全くないことが気がかりだったので、ここにこの文章を残すことにします。読んでくださった方がもしいたら、あくまで様々な感想の中のほんの一つとして受け取ってください。

 


けれど、

 


このためだけに、このことを書くためだけに、このページを開設しました。そのくらい、強く訴えたい気持ちがあったのもまた確かです。

 

 

 

 

※追記
あみ子に集まるレビューを読んでいく中で、「きっと私も気持ち悪がられる」と思ったため本文中では触れられなかったが、作中、あみ子がボコボコにされたり家族の心を壊してしまう理由が、実は私には分からない。正確には「頭ではなんとなく分かる」、しかし「感覚として分からない」(注:ASDは共感能力がないと勘違いしている人が多いがそれ自体はちゃんとある)。発達特性について色々学んできた今ではあみ子の言動が他者を傷つけるものだということはある程度理解できるようになったのだが、基本的には私は子供時代のあみ子と大差ない感覚のまま大人の自分を生きている。だからいつボコボコにされても、いつ家族の心を壊しても、いつ見棄てられてもおかしくないと思っていて、そうならないために、医療やカウンセリングや書物での学び、家族との綿密なコミュニケーションに一定の時間を割いているし、基本的には理解が深い連れ合い以外との私的な接触はほぼない(出来ないというか望まない、感覚過敏も酷く外出もままならないので)。
もしかすると監督は、発達障害児童のことを、ただの「よくいるクセが強い子」で「大人になればみんな自然に、我慢や諦めることや相手の気持ちを慮ることを学習して周りと足並み揃えられるようになる」と思っているのではないか。いつか「自然に」あみ子ではなくなる、だから「自分も(誰でも)かつてはあみ子だった」。……しかし実際は真逆で、大人になればなるほど皆との違いが際立っていき、特に仕事にかかわる場面で周りとの齟齬が限界に達して深刻な二次疾患を発症したり、失職や転職を繰り返さざるをえなくなって経済的に困窮している当事者もとても多い、あみ子のような「人と違ったまっすぐな感性」は定型発達の人に「子供時代の感覚」を思い出させるだけの都合のいいものでは決してなくて、当事者の将来にとって生死をわかつレベルの困りごと、まさに「死活問題」なのだ。

日本では特に「暗黙のルール」が分からないと「社会性のない大人」のレッテルを貼られがちだが、その「暗黙のルール」を内面化する(していく)ことが、定型発達の人と比べると格段に困難なのが非定型発達である。先に述べたように「自然に」皆に馴染めるようになることは、ほとんど無い。傍目にはそうなっている(自然な変化)ように見えても、その後ろには多数の学習や工夫や労苦、支援や医療が隠れている(専門医がよくいう言葉に「存在を消せ」がある。非定型の人がありのままに振る舞っているとどうしても違いが目立っていじめや差別の対象となりやすいので、存在を消すことで馴染んでいると「錯覚」させろと言うわけだ、更に「発達障害の名乗り」そのものが何故か定型発達者の怒りを刺激することが多々あるため、身を守るために公表していない当事者も多い)。マジョリティなら周りに馴染む努力を全くしなくても大丈夫という意味ではなくて、程度や種類の問題……正に程度や種類の問題なので、「誰だってみんな頑張ってるんだよ」「みんな努力してるのに少数派ぶるな」と言われてしまいやすい。善意の「みんな一緒だよ」は、横滑りで「弱者特権への攻撃」に転化する、無理解という意味では同じ線上のものともいえる。
このことはセクシュアルマイノリティはじめ各種マイノリティの方々にも通じるのかもしれない(現行の社会に馴染むために強いられる努力の不均衡さはそれぞれの当事者以外に分かりえない重いものだから、私が安易に一緒だと言ってはいけないが)、そもそもこの映画における発達障害の描かれ方は、レズビアンカップルを「思春期の一時的な気持ちの揺れ」として「美化された思い出」のように語ってしまう、当事者にとってのリアルとリアリティよりも、当事者以外の人間のリアリティ(リアルとは本来かけはなれたもの……誰でも多感な時期にはそういうことがあるのは分かるよ、とか、本当に愛する人に会ってないからだよ……というような思い込み、揺らぎはあってもいずれ誰しも異性愛でアローでシスにおさまるものだという根深い抑圧)を優先したある種の作品群に、酷似していると思う。こういうテンプレ的な描き方に名前をつけたいくらいなのだが、作者に悪意があるのか、本当に何も分かっていないのか、それすら分からなくて当惑するので、往々にしてモヤモヤとした気持ちを抱いたまま沈黙している人は多いのではないかと思う……