nohara_megumiのブログ

自分がおかしいことを自分が一番わかってる

映画「こちらあみ子」と発達障害●補足(内容篇)

※当事者の呼び名の表記を所々変更、健常主義的な言い回しを考え直す等、公開日より修正が加わっております(最終2023.5.15)

※これは私個人の感想で、発達障害者を代表する意見ではありません

※こちらの記事では内容に触れていますが、映画を否定し小説を擁護する意図はありません。三人称が押し付けざるを得ない「主人公の客観性」と当事者性との関係など、やはり原作にも考えるべき問題があると思っています。個人的には原作の一番の悪意は「新しいお母さん」であることかなと(元の題は『あたらしい娘』であったし発達障害には遺伝性もあると言われている)……しかしそれでも、映画化に際して「何故原作がこの設定になっているのか」よく考えていないような、演出や曲も含めて産みの母親を「あみ子を見守る大きな存在」と安易に意味付けしている点(原作が危うさの中でその質を保てているのは意味付けを拒否しているからだと思います)、また10年の月日の空きやある程度の批評が既に存在するという点(文芸の方がまだ慎重に議論されていた記憶があります)を考えても、やはり映画の方が問題は大きいかと考えています

 

-------------

 

まず前提ですが、私が一番言いたかったのは、

 

発達障害の要素を映画に使うなら発達障害当事者や現在の日本の状況を考慮しなくてはいけない(あみ子のような「人と違ったまっすぐな感性」は定型発達の人に「子供時代の感覚」を思い出させるだけの都合のいいものでは決してなくて、現代日本社会の状況では当事者の将来にとって生死をわかつレベルの困りごとである)。それをしたくないのなら発達障害の要素は全部排除しなければいけない。どちらも中途半端にしているのは、当事者への配慮を欠き差別を推し進める搾取にも似た行為だ。更に、映画(フィクション)の理解が難しい障害、映画を見る体力がない病気、認識や言語化能力があまり高くない子供などをモチーフに使うとき、それらの人々がその特質ゆえに違和感を表に出せない可能性があることを忘れないでほしい」

ということです。決して監督の人間性や映画の全体を否定するものではありません。

 

その考えにいたった背景には、映画のあらすじ、予告編のキャッチコピー、監督のトークショーやインタビューなどでの発言があります。「僕があみ子」「あみ子と一体化している」「生きにくいかもしれないけど、それはぼくも同じ」「あみ子も大丈夫って言ってます」(https://hitocinema.mainichi.jp/article/9uem2vnxq5js ) と語る監督は、自身が描いている主人公の特質が、発達障害という「現代社会の状況では周囲と共生していくために著しい負担を強いられる、少数派の脳の性質」、つまりマイノリティの性質であるという認識がないようです。しかし原作刊行時からこれは発達障害なのではないかという声、当事者からの批判は沢山あがっており、実際に少し関連書籍で調べてみれば、原作に描かれたあみ子の性質が様々な発達障害にみられがちな要素の「寄せ集め」であることがわかります(興味のある人間以外おぼえられない、しかし好きになると極端なほどあからさまに好意を伝え続ける、中学生になってもじっとし続けられない、漢字や文章の認識が難しい、何をしたら人が悲しむのか喜ぶのか全く分からない等々)。ですから、仮に監督が「発達障害」という言葉をどこにも使っていなかったとしても、それを描いていたつもりがなくても、この原作を忠実に再現する限り見る人に発達障害を連想させてしまうのは当たり前のことといえるのに、その監督自身が、あみ子の性質を自分をはじめまるで誰にでも当てはまることのようにとらえているのが、まず一番の問題であるといえます(診断基準を持ち出してあれこれ言う人もいますが問題は観る人の捉え方であり発達障害を連想する人が多い描き方がされているのであれば現実の当事者を無視していいはずがなく、実際にあみ子が発達障害かどうかという点が問題なのではありません)。

 

そういった認識の甘さが内容に色濃く反映されているのが、ラストシーンの(原作からの)改変です。

小説はあみ子の一人称に限りなく近い三人称、映画は終始あみ子の目線で進んでいきますが、あみ子の心情が分かりにくいまま読者が投げ出されるように終わる小説とは異なり、映画ではあみ子の言葉に「意思」がこめられているような演出がなされています。彼女にしか見えないものを見送ったあとで「大丈夫じゃ」とあみ子が答えるラストシーン、ここに(小説と比べて)ある種の希望やかすかな救いを感じとった鑑賞者や批評家は多いようです。ラッパーであり、映画への見識の深さで有名なラジオパーソナリティもこのように語っています。(https://www.tbsradio.jp/articles/57485/ )

 

『彼女自身がちゃんと選択して、その未来というものを見据えたエンディングだ、というふうに、僕は解釈しました』

……しかしここで(あみ子にしか)見えないものを見送ると決めたのは、「大丈夫じゃ」と明るく答えるのは、本当に「あみ子」なのでしょうか?それは「彼女自身の選択」と言えるのでしょうか?誰にも本当のことを教えられず、周りから人々が消えていく、そのような状況で「大丈夫じゃ」と言いたいのは、一人の孤独な人間(しかもまだ自活の手段をもたない子供なのです)よりも、私たち無責任な大人(作り手と鑑賞者)ではないかと私は解釈します。

 

持病をもつ友達に久々にあったとき、「体調悪すぎてもう長くないかも」と言われるのと「大丈夫、元気だよ」と言われるのと、自分はどちらに安心するでしょうか、当然後者だと思います。そこには相手の問題以上に「自分が不安でいたくない(相手の状況が自分に辛い暗い悲しい気持ちをもたらすのが嫌だ)」という認識も含まれており、(私含む)多くの人は無意識に、「相手のありのままの状態」を認識するよりも自分の認識が心地よくなることを求めてしまいがちです(……それ故反対に「大丈夫でない」人間もつい「大丈夫」と言ってしまいがちなのは誰でも心当たりがあることと思いますが、病気や障害のある人は特に「症状がでている時の自分」と「他者に会えている時の自分」とに落差があるため大丈夫と言わなくても現実以上に大丈夫と思われてしまいがちという困難が伴います)。あのシーンでもしあみ子が、「助けて」「苦しい」「分からない」「辛い」と言い出したなら、あるいは沈黙したなら、多くの人は困惑し、あみ子やこの映画を受け入れがたく思うでしょう。悲惨な結末が正解だということではありません。それまであみ子そのもののはずだった(…と、あくまで作り手ふくむマジョリティが思い込んでいる)目線が、ここで突然(当事者である私にとっては最初から、とも言えますが)大人にとって都合のいいものに変わってしまっているのが問題なのです。

原作にはそういうことがありません。原作の作者はおそらく、自分の悪意や加害性、排他性に対して向き合う理性や自覚があり(でなければ同時収録のピクニックのようなものは書けないと個人的には思います)、安易にあみ子を自分の信じたい物語に回収することを避けたのだと思います(……というより創作をする者にありがちな「まとめたい脳」に巻き込まれる前にいい意味で「ただ書きおえてしまった」のだとも思います自覚と無自覚のバランスの話は創作の要ともなるので簡単には言えませんが「登場人物の造形」の次元ではなく「作品全体の表現」の次元に非定型発達的な感覚を適用するか否か/出来るか否かで、あみ子のような小説の質および読み手に認識させるジャンルは大きく変わってくると思います)。翻って映画の監督は、それが本質的にも「映画と監督」という立場を考えても全く別の人間(しかも本来であれば支援が必要なのかもしれない、少なくともそのマイノリティ性に対する理解や配慮は必要な発達障害児童)であるのにあみ子と自分を同一視しすぎているため、作品内における登場人物の自律性に無頓着となり(「あみ子の話」なのか「あみ子的な話」なのか両方なのか……原作との一番の違いはラストの改変ではなく、この認識あるいは無意識、の差ではないでしょうか)、突然「映画として形のいいエンディング」「大人にとって都合のいいエンディング」を用意してしまっています。他でもない自分が、あみ子を排除する側の人間、あみ子を放置しおいつめ加害する人間なのかもしれないという、自他の分離/悪意の自覚/作中人物との距離の認識が、極端に欠如しているのです。そしてここに、「発達障害の要素」が絡んでいることを思い出せば、このラストシーンは、監督や、先にあげたラジオパーソナリティを筆頭とする多くの定型発達の大人たちにとっては希望(安心できる)かもしれなくても、当事者にとっては絶望(全部自分の責任ですよ、全部自分で頑張ってねという社会からのメッセージ)でしかないということがわかると思います。その瞬間に、(作中のあみ子が家族に棄てられたように)現実を生きるあみ子たちは社会から棄てられるのです、棄てたという自覚をもたない人たちの手によって。

 

本来ならあみ子をただ放置してああいう状況においこんだ大人たちにあみ子を「大丈夫」にしてあげる責任が、「大丈夫でいられる社会を作り直す」責任があるくらいなのに、何故あみ子自身に「大丈夫」と言わせてそれを「未来を見据えたエンディング」と解釈できるのか、私には分かりません。それはあまりにご都合主義ではないでしょうか。何があっても何もわからず自分を貫いてきたあみ子を眩しいもののように描きながら、そのまっすぐさゆえに周りの人たちから見放されたときにも、それを「このままのあみ子でもきっと生きていける」、「大丈夫」と「言わせる」だけで特に何をするわけでもない……あみ子の性質が現実社会に存在する困難と関わっている事実を甘く見ているから、原作におけるあみ子の性質について映画化に際してよく検討し直さないまま「自分と同じ」という第一印象をただただ優先してしまっているからこういう結末を選べるのだと思います。そしてそれが現実に存在する発達障害の当事者たちにとってどんな意味をもたらすのかについては、もちろん全く考えが及んでいないことは明らかです。そういった視点の全て(監督のみならず好評価をしている批評家も)が定型発達者の傲慢さの現れとは言えないでしょうか。そしてこれはあらゆるマイノリティを描いた作品の随所に見られる現象でもあると思います。

冒頭に示したように監督は「あみ子も大丈夫って言ってますし」と述べていますが、大丈夫だと言わせているのは自分だという自覚をもってほしいし、その自覚のなさは、母親と娘の描きかた(捉え方)の雑さ(或いは父親の/への、無関心さ)と無関係ではないように思います(話が膨らみすぎるため、発達障害ジェンダーロールや性自認の関係についてはここでは省きます)。

 

……少々きつい言い方になってしまいましたが、当事者でももちろんこの映画を楽しめる方は多いと思いますし、そのことを批判するつもりはありません。監督の認識も、今のところあまりにも幼いとは思うけれど、映像の美しさなど今後に期待できることは大きいです(原作の作者のその後についても個人的にはいい変化が見られるような気がします全ては読めていませんが)。ただ、映画雑誌で高評価をしている批評家たちや監督とのトークショーにも参加するほど絶賛をしている著名人たちの言説には、厳しく否を突きつけさせていただきたい気持ちがあります。残念ながら「病気」について分かっていても「患者」について分かろうとする医師は少ないですから、某精神科医の批評は私にとって何の意味ももちませんし、某クィア批評家はマイノリティ/クィアの指すところをジェンダー/セクシュアル/ロマンティックに限定して捉えているからこの映画の当事者性に気がつかなかったのではないかと思うのですが、セクシュアルマイノリティとニューロマイノリティの関係は本来密接である(一方が原因という意味ではなく、重なりうるという意味)と私は考えています。また全ての差別は表層の形は様々でもレトリックが似通っていたりある種の共通する構造を見いだすことが可能で、そこに対する意識を持たずに「何か」は見るけれど「別の何か」は見ない、という姿勢でいるのは、畢竟それもまた差別であるように思うのです。

作り手や批評家の方々(映画に限りません)へ、それが「自分たちにとって大切な何か」なのは分かります、でもそれを表現したり評価するために、当事者性を無いことにするのはやめて下さい。それは当事者にとっても、大切で切実な問題なのです。